川北英隆のブログ

会計基準と国債発行2

金融機関の会計が国債に影響を与えた典型例として、ロクイチ国債問題がある。ロクイチ国債は現在ではほとんど死語の世界であるが、債券市場の自由化を促進した「ケガの功名的」功労者として記憶されている。
内田茂男『日本証券史3』(日本経済新聞社、1995)によって、おぼろげになった記憶をたどりながら、記しておきたい。
1978年、6.1%の固定利付き10年国債(ロクイチ国債)が発行された。今となっては夢のような金利が稼げる債券だが、当時は極めて低金利だった。その国債が、その後の金融引き締めによって暴落し、銀行経営に大きな影響を与えた。同時に、金融市場に革新をもたらした。債券市場、とくに国債市場での金利形成が自由化していったのである。
この国債の意味を考える場合、次の2つの時代背景を念頭に置くことが重要である。
1つは、国債の大量発行が1975年末から始まっていた事実である。健全な財政から赤字財政への転換点が形成されたことになる。当時の日本経済は高度成長期から低成長期へと屈折した直後の段階にあったのだが、「屈折」の事実認識が遅れたこともあり、景気を下支えることが至上命題となり、ケインジアン的かつ強力な財政政策が打ち出されていたのである。
もう1つは、当時の国債の消化は、大蔵省(現在の財務省と金融庁の前身)の配下にあった金融機関にシンジケート団(略称、シ団)を強制的に組織させ、そのシ団に引き受けさせるものだった。そのシ団の中核を担う機関が銀行だった。
ということで、当時としては異常な低金利にあったロクイチ国債を銀行が大量に保有しており、その国債に非常に大きな評価損が発生したのである。ロクイチ国債の価格は、1979年4月には一時、額面100円当たり72円台にまで下落した。
当時、国債のクーポンレート等の発行条件の決定、引き受けた後の保有国債の売買にはさまざまな制約があった。また、銀行が保有する国債の評価損を回避するために、低価法から、低価法と原価法の選択制に改められる(1979年12月の大蔵省銀行局長通達)という、最近どこかで聞いたような制度の導入もあった。しかし、ロクイチ国債の混乱が峠を越えると、国債の売却制限が徐々にではあるが、緩和から自由化に向かった。また、発行条件も流通市場の状況を重視するように変わっていった。入札制度の導入がその典型である。中期国債や割引国債を発行し、さらには中期国債を組み入れた中期国債ファンドが開発されたのも、大量に発行された国債の消化が最優先課題だったからである。
売却制限もシ団もない現在から眺めると、隔世の感がある。ついでに言うと、当時、投資家が忌み嫌ったために暴落したロクイチをあえて買い、償還差益を狙うという投資手法を日本生命が採用した事実もある。

2009/07/28


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