川北英隆のブログ

山口善之君の死去

昨夜、寝る前にメールチェックをしたところ、山口善之君の訃報が届いていた。11/8に亡くなったとのことである。
日本生命での同期である。というよりも、大学のゼミで一緒だった。仕事が近かったことから接点が多かった。
大学のゼミ(島津ゼミ)では当初、一緒ではなかったが、山口君の属していた松井ゼミが先生の死去によって解散、島津ゼミに合流したと記憶している。という島津ゼミも、2回生の終わりのゼミ入試とその後のゼミの懇親会きりで、3回生の夏からは何も活動がなかった。
山口君と一緒になったのは、3回生の春休み頃から始まった就職活動だった。実は、島津ゼミでは浜岡、山口、川北の3人が野村証券と日本生命を最後まで掛け持ちしていた。時々、野村で一緒になった。「誰か野村に行くやろ」と思い、最後に日本生命を選択したのだが、当時の7/1の内定解禁日には3人とも日本生命に来ていた。京大経済学部から日本生命に入ったのは、この3人だけだった。
入社直後の研修が終わり、配属が決まった。山口君は神戸支社だった。研修寮を離れる日、そのまま研修寮で寮生活が始まった山口君が寂しそうにしていたのを、今でもはっきりと思い出せる。
僕が東京に移った後、山口君とは仕事が近くなった。最初は山口君が大阪だったが、そのうち財務部門が東京に大移動となり、山口君も東京に来た。彼は独身だった。結婚するような噂を耳にしたこともあったが、実現しなかった。
独身の山口君の住居は新小岩だったと思う。そこで倒れているのが発見された。正確な年は忘れた。一命は取り留めたものの、言語中枢にダメージが残り、仕事ができなくなった。真面目な性格だから、仕事をしすぎたのだと思う。それと独身だから、食事も正しくなかったのだろう。
2000年過ぎ、大阪で療養していたので、その時に一度見舞いに行ったが、外出中とのことで会えなかった。その後、大津に引っ越してマンションに住んでいたので、訪問した。2006年の秋だと思う。パソコンで文字が少し書けるようになったと話していた。マンションの近くを少し散歩した。
その後、新幹線で大津を通ると時々思い出していたが、見舞うことはなかった。先月、大津で降りたことから、「あれから10年が経過した」と思ってはいたが・・。申し訳ない次第である。
今年は友人、知人、身近だった方々の死去が重なった。京都に来てからの親戚や両親の死去については、「年齢が年齢だから」と思っていたのだが、今年はそうでないだけに残念である。それとともに、自分もその領域に近づいたのだと感じてしまう。
山口君のご冥福をお祈りしたい。

2016/11/19


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