川北英隆のブログ

日本のプロ投資家はエセか

プロを自称し、一般大衆のために投資成果の供与を使命とする専門家が、実は勉強不足なのか、現実に対する認識が大いに不足しているのか、単に怠けているのか、そう思わざるをえない証拠を、先日、再度突きつけられた。
何に対してそう思ったのかというと、株式投資である。
僕自身、株式投資はグローバルだと考えている。言い換えれば、日本市場だけを評価し、日本市場だけで投資を完結するのでは、成果はたかだか知れている。1990年代半ば、マイクロソフトの急成長を目の当たりにしたことから、このように実感し、実践を心掛けてきた。
その直後、僕と同じ感覚のプロ投資家が現れた。しかも、実証的な分析を加えることで、グローバルな投資の必要性と有効性を説得力高く示してくれるようになった。
先日、某公的年金の会議の場で、日本市場とグローバル市場との違いが数字によって示された。2つの市場に違いがあることは、僕にとって、1990年代半ば以降の現実だったが、改めて数字を突きつけられることにより、理解が深まったと言える。
具体的な差異として日本市場に不足するのは、情報(グーグル、アマゾン、アップル、マイクロソフトなど)、エネルギーや資源、ヘルスケア(医薬や病院など:日本の病院は「聖域」であり、投資対象にならない)である。数字になかったが、農業も日本ではやはり「聖域」であり、投資対象にならない。
一方、日本に多いのは、一般消費財、資本財(部品などと考えられる)、素材である。この分野には電子部品や工作機械などの優れた企業も含まれるのだろうが、一般消費財や素材など、過当競争に晒されている分野が問題である。儲からない企業が撤退、淘汰されないために「あふれている」可能性も否定できない。
いずれにせよ、日本に投資しているだけでは、情報やヘルスケアなどの成長分野を見逃し、三振してしまうことになる。その成長分野に日本の企業が参入していたとしても、どの程度の競争力と成長性があるのか。いずれにせよ、グルーバルな観点で優れた企業を投資対象として組み込めない可能性が高い。
企業がグローバルに競争する時代において望ましい株式投資とは、グローバルに企業を比較し、投資することに尽きる。そうであるのに、今の多くの公的年金の投資スタイルは、日本の株式市場と、日本以外の株式市場(つまり海外)とを分けて考え、日本と海外の投資比率を1対1にしている。
ちなみに、グローバルに見て、日本の株式市場の規模は1割に満たない。これに対し、日本と海外の投資比率を1対1にするということは、日本の株式市場のグローバルな規模を5割にすることと同じである。
この公的年金の投資スタイルが正しかったのは、日本が急速に成長し、競争力を付けていた1970年代から80年代にかけてだろう。現状はどうなのか。今の公的年金は日本の過去の栄光に取り憑かれているとしか思えない。もしくは、市場を客観的に把握せず(できず)、主観的なスタンスで日本をえこひいきしているのだろう。
もう1点、補足しておく。投資理論では、できるだけ投資対象を幅広くとらえ、投資を実行するのが正しいとされる。公的年金は、日本の株式市場に関して、東証1部上場企業をベースの投資対象としている(正確に書くと、投資理論で言う「マーケット」を東証1部市場と定義している)。幅広く捉えているわけである。僕自身は、東証1部上場企業をベースとするのは正しくない、制度の不備など現実を認識できていないと考えているものの、ここでは論じない。
それなのに、株式市場全体に関しては、世界市場をマーケットとは定義せずに、先進国市場と日本市場に分けて定義している。発展途上国の市場をマーケットの定義にいれないことは、それらの国々の政治経済の不安定さからして容認できるとしても、先進国と日本とを区別することに関する理論的、現実的な根拠は皆無に近い。
企業が言語や文化の壁を乗り越え、グローバルな活動をますます積極化させている。それなのに、国境を自由に乗り越えられるマネーを扱う投資家が、日本国内に閉じこもり、唯我独尊でいる。「変なの」である。
公的年金の場合で言えば、年金受給権者である国民の利益をないがしろにしているとしか思えない。もっとも、公的年金では、問題がプロ投資家自身にあるのではなく、制度全体にあるのかも知れないが。プロ投資家を一方的に責めるのはやりすぎだろうからと、公的年金のプロ投資家の名誉のために書いておく。僕自身の名誉のためでもある(理由は「調べたってんか」である)。

2019/03/28


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