川北英隆のブログ

夏至の日のお通夜

今日は夏至、その日に母方の叔母(清水昭子)のお通夜があった。亡くなった母の弟(叔父、清水勇)の配偶者である。数えで94歳とか。骨粗鬆症で施設に入っていた。最後は臓器全体の老衰である。
3年前、その叔父は母より1月後で亡くなっている。当時、叔母はすでに施設に入っていて、外出もできない状態だった。2007年、母方の一番下の叔母(岩城光代)が亡くなった時、昭子叔母は叔父よりも元気だった。それから数年して施設に入ったと聞いている。
母の実家、清水家は奈良盆地の東側、丘陵に面した村である。水田もあり、果物畑もあり、変化に飛んでいた。奈良時代の遺跡(たとえば廃寺)もあり、山からの水も流れ、比較的豊かな土地だったようだ。その実家を叔父と叔母が継いでいた。
60年ほど前の子供の頃、母方の祖父(清水與二郎)に連れられ、畑に行くと、眼前に迫る奈良の東山の稜線に大きな木が何本か、独立して立っていたのを覚えている。大きな山に思えた。それが母方の実家がある郊外の最初の風景に近い。
今となれば、その前年か前々年かに大きな台風が来て、稜線の木がなぎ倒されたのだと想像する。というのも、昨年の台風で、京都の東山の稜線に、60年前ぶりに同じような光景を目撃したから。
高校生の時だったか、暇な浪人の時だったか忘れたが(いずれにしても50年ほど前)、秋に母方の実家を訪ねると(父親の知り合いが危篤間際に食べたいとつぶやいた熟柿を探すため、訪れたのだと思う)、田んぼでは稲刈後の脱穀の最中だった。柿を手に入れたのかどうかは忘れたが、ついでなので脱穀を手伝った。
作業をしたのは祖父、叔父、叔母と僕だった。祖母(清水キミヱ)は元気だったのだが、(祖父が養子だったこともあり)田んぼや畑での仕事が嫌い、昼寝が大好きだったので(昼寝する時にはいつも「極楽、極楽、英隆も寝ろや」と独り言ちていた)、その場にいなかったと思う。
その作業の時、東山には独立した木がないことと、若くて元気だった頃の叔母の姿を確認した。というのも、叔母の姿をちゃんと見たのが2007年まで飛ぶので。じっくり思い出すと、30年少し前、祖母の葬儀の時に当然ながらいたはずなのだが。
夏至の日のお通夜、時間がたっぷりあった。亡くなった叔母のことを少し思い出してみた。

2019/06/22


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