川北英隆のブログ

白川池の変貌

大国見山から手前の峠まで戻り、岩屋へと下った。途中で奥の峠からの道と合わさる。峠道は名阪国道の手前で車道に下りる。岩屋の上、名阪国道がループを描く手前である。岩屋から登って来ると、ループの手前で右に折れて川を渡り、名阪国道をくぐる。すぐに大国見山への道標があろう。
よく踏まれた道なので、大国見山へは桃尾の滝からでも岩屋からでも迷うことはないだろう。
車道を下り、道路沿いに細長く続く岩屋の村を過ぎると、名阪国道天理東インターが左手に見える。右手には、少し上がり気味の車道がある。これが白川池への道である。
両親の実家が和爾にあり、白川池が比較的近かった。白川池は大きな池というか、小さなダムだった。川を堰き止めるための大きな堤があり、それが少し急な草原になっていた。春にはツクシがたくさん出た。夏には池を一周して自然観察ができた。
その白川池、今はかつての姿がなく、完全に小さなダムになっていた。公園ができ、天理教関係の病院やグラウンドが池の奥にある。一周できなくなったようだ。その代わりか、堰堤では釣りができるらしく(有料?)、何人も釣り竿を出していた。
昔の白川池だが、母親の実家で「池の堤防を作るために作業した」と聞いたことがある。
それを思い出して調べたところ、人文地理学会『人文地理第45巻 第2号 (1993)』に伊藤寿和「奈良盆地における灌漑用溜池の築造年代 と築造主体」というのがあり、白川池が大正15年に作られたと書かれている。父親が8歳の時、母親が生まれた年になるから、母親の実家の爺さんらが作業に駆り出されたのだろう。
また、仲川政成「大和平野の利水と吉野川分水について」というスライドがあり、そこには「大正13年の大干ばつにより、甚大な被害を被ったのを契機として築造」とある。完成は昭和8年らしい。費用は42.8万円とある。
その白川池、治水機能の整備のために堰堤の嵩上げがされ、現在の姿になったらしい。同じスライドによると、昭和47年から平成9年までかかったとある。151億円が使われたらしい。
ついでに書くと、大正、昭和、平成と、文献にある年号のまま書いたが、「いつなんか理解でけへん」というところだ。これに令和が加わるし、明治の可能性もある。やめてほしいものだ。
それはともかく、もう1つ思い出したのは、中学か高校の時に友達と白川池に泳ぎに行ったことである。管理者にみつからないよう、池の奥まで行った。僕は大して泳げなかったので岸で見ていたか、浅いところで泳いだだけだと思う。
その時、時計を外したせいで、そのまま忘れて帰り、なくしてしまった。母親が「またなくすやろから、一番安いのを買った」と新しいのを渡してくれた。その時計、今でも持っているし、動く。
上の写真は大国見山から見た白川池である。中央右に水面が見える。中央の白い建物はシャープの研究開発施設、奥は生駒山である。
下の写真は白川池からの大国見山である。右のおむすび型のピークである。左よりも低い。
20200119大国見山からの白川池.jpg

20200119白川池からの大国見山.jpg

2020/01/19


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