川北英隆のブログ

余呉から河毛へ歴史を歩く

表題のとおり、余呉から河毛まで歩いた。と言われても、余呉とか河毛とか、「どこや」と質問されかねない。琵琶湖の最北から少し離れ、その東北部に余呉湖がある。かつての主要な街道、京都と福井を結ぶ道、北国街道が通っていて、要衝だった。だから戦いがあった。
今回、北陸本線の余呉駅で下車し、余呉湖の東側の山を歩いて賤ヶ岳に出た。賤ヶ岳は織田信長が殺され、明智光秀が退治された直後、その後継者を争って羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が戦った場として有名である。実際は賤ヶ岳だけではなく、その周辺一帯だが。
今回は賤ヶ岳からさらに南に下り、琵琶湖の北部を区切っている山並みを山本山まで歩いた。ここで山並みは途切れ、平地になる。この山本山も城跡である。
山本山から平地に下り、東に向かって北陸本線の河毛駅まで歩いた。河毛は浅井長政とお市の最後で有名な小谷城の麓にある。ここでもう一山、岡山という丘を歩いた。河毛の北に、やはり城址のある山である。
河毛には小谷城のあった小谷山もある。この山にはまだ登っていない。
その小谷山の南に虎御前山がある。小谷山を攻める時、秀吉軍が陣取った山であり、30年以上前に歩いている。
実は今回歩いた地域、上で書いたことからも分かるように、戦国時代の復習になる。福井、金沢、富山から、当時の主要作物である米を京の都に運ぶのに、またその上前を税として納めさせるのに絶好の立地だった。少し下れば米原があり、岐阜、名古屋とも結ばれていた。また、琵琶湖という淡水の湖での漁獲と水運も重要だったと考えていい。
これは戦国時代だけの事情ではなく、古代からそうだったらしい。その証拠に、賤ヶ岳から山本山までの間の細い稜線には、小さな古墳がびっしりと並んでいる。判明しているもので132あるという。その間、約3キロ、墓巡りの縦走なんて、そう簡単に体験できるものではない。
アップした写真、真ん中より少し上の濃い緑の帯が山本山(左のピーク)から賤ヶ岳手前のピーク(右端)までである。真中付近の低い部分に古墳(丸くて小さな丘状の地形)がずらっと並んでいる。写真の左端に琵琶湖と竹生島も見える。また、手前に北陸本線と北陸自動車道も走っている。撮ったのは岡山の山頂である。
20200929山本山から賤ヶ岳への稜線.jpg

2020/09/29


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