川北英隆のブログ

印鑑讃歌

押印不要論が喧しい。日本は世界に冠たる印鑑王国である。印鑑の発祥は中国あるのだが、かの地ではとうの昔に印鑑が消滅している。中国からの留学生が、日本での諸手続き用に印鑑を急遽手配するのは滑稽だった。その最たるものが銀行口座の開設だろう。
コロナによって押印が滞った。会議の議事論に押印するため、わざわざ東京に出向いたことがある。というのは半分作り話だが、「東京に来る日がないか」と質問されたので、「いついつの何時頃なら押印が可能だ」と返事をし、その約束の日時に議事録を作成した企業へと足を運んだことがある。それも1社ではない。
ある企業は会議の議事録を郵送してくる。やはり押印のためである。最近ではレターパックがあるので少し便利になった。というのも、以前は簡易書留だったから、押印して送り返すのに郵便局に出向かないといけなかった。
押印がなくなると、郵便局が打撃を受けるだろうと思う。手紙や葉書がメールになり、押印のための書類のやり取りが省略される。郵便局として、「メールのやり取りは郵便局を通せ、その代金を徴収する」と要請してはどうだろうか。そうすれば経営が安泰になる。
これは完全に冗談だが、某国営放送にはインターネット端末から受信料を徴収しようとの試みもあるし、テレビを購入すれば届出ないといけないとか、受信料の未契約者情報(つまり個人情報)の入手を可能にしようとの画策もある。
だから、郵便局がメール情報を入手しようと試みても、「政府系の組織ってそんなもんやし」と国民が諦めてくれるかもしれない。何てね。
それはともかく、押印をなくすためには事務システムの大幅な改革が必要になろう。1つの事例として、某大学での出張手続きがある。この某大学では出張の申請を「旅行伺い」と称している。その申請書は押印の山である。
先日、押印がなくなる前の(本当になくなるかどうかは不明ながら)記念撮影をしたところ、印鑑が8つ押してあった。これに、申請者自身の自筆サインが必要になる。実質、9つの確認の印が登場する。
実は、この印鑑の数、以前よりも減ったように感じている。記憶では、印鑑がA4横の申請用紙の1列では収まらず、2列くらいあったような。
日本は形式主義である。誰がどれだけ真剣に申請用紙をチェックし、承認した印に押印しているのだろうか。旅行伺いの申請者自身の自筆サインは、以前は押印でもよかった。でも、代理人が押印することが多かったのだろう、「それではあかん」というのでサインになった。どういう実質上の違いがあるのか不明だが、サインだと申請者が真剣になるとの想定だろう。
押印がなくなると、実印の制度がどうなるのか。サインを登録しないといけなくなるのだろうか。考えると、いろいろと面倒なことも生じそうだ。と、印鑑への雑感である。

2020/10/20


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