川北英隆のブログ

コロナへの願いと祈りと現実

日本のコロナ感染者数が急激に伸びている。政府もようやく第3波を認識したらしい。「でもね」と思うのは、先見性のなさである。誰もが「増えた、前のピーク数を越えつつある」と確認できる段階になっての第3波認識である。それくらいなら誰でもできる。
ぼく自身、11/2、このブログで「コロナが第三波に突入か」と書いた。東京の感染者数だけでなく、地方へと拡散しつつあることが素人目にも明らかだったから。
僕と年齢が近くて識者である友人と話していると、彼も怒っていた。子供が(どういうわけか)まだ小学生である。家が新興住宅地にあるため、学校の整備が遅れていて、プレハブの校舎だそうだ。そこで生徒に感染者が出たとか。
つまり、「そこまで危機が迫っている」。なのに、政府の対応のスタンスは半年前とほとんど変わらない。感染の検査可能数は大きく増えていないし、病棟の増大は遅々として進んでいない。むしろ政府はGoToキャンペーンを実施し、ウイルスの拡散を促しているように見える。これが彼の怒りの1つの理由である。
もう1つ理由があるとか。政府が実際にやっていることとは、コロナ以前の状態への回帰だけで、コロナ後の状況を見据えた新しい状態への意識に乏しいことである。
これまでから日本の政府は、自分の独自能力でもって、新しい社会を描くことができていなかった。代表的には敗戦後の復興である。欧米を模倣することで、世界に驚嘆される高度成長を遂げた。しかし、欧米に追いつくと、模倣する手本がなくなり、行き詰った。1990年代のバブル崩壊時、政府が最初にやったことといえば、土木工事によって経済を刺激し、従来型の重厚長大企業(鉄鋼、化学、重電など)や不動産関連企業を救済し、倒産を回避させることでしかなかった。
当時、台頭しつつあったデジタル化の流れなんて、横眼にも睨んでいなかった。だから、インテルやマイクロソフトの躍進はもちろんのこと、インターネットへの認識は皆無に近かったのではないだろうか。
それと今とは同じである。国会や、コロナに関する有識者会議のニュースを垣間見るに、「あんな大勢が集まって、コロナを喜ばしているのか」と思えてくる。国民に「密をさけるように」と促している張本人が、何をしているのか。想像するに、国民に密を避けるようにとか大勢でお願いをし、コロナ収束を祈ることが、国会や有識者会議の最大の目的になってはいないのだろうか。何人かの識者は正論を発するのだろうが、そんな発想は政府として後回しでしかなく、お願いと祈りと、それによって少し前の世界に戻ることが最重要である。
GoToキャンペーンにしても、要するに鉄道、航空、旅行業などの旧来型産業の救済である。もちろん、それらの企業を今すぐに倒産させるわけにはいかない。そうだとしても、倒産回避のための資金を直接注入すればいい。GoToキャンペーンで国民を巻き込み、コロナを拡散させるのは愚でしかない。
というか、業者も喜び、国民も補助をもらって旅行して遊べるから喜ぶ。一石二鳥の政策だと、政府は自画自賛したのだろうか。その結果は、コロナ第三波によって元も子もなくなりつつあり、かえって負の遺産を作ってしまう。
政府が予算をつぎ込むべきは、検査を含めた医療体制の緊急的な拡充である。ワクチンなどの開発もやってもらいたいが、急には無理かもしれない。次に、コロナ後の新しい産業の育成である。大括りにはデジタル化だから、たとえば企業が地方に移転し、勤務体制のデジタル化を図るためへの支援だろう。現実はといえば、企業が地方に移転すれば東京圏が衰退し、それに依存する企業(代表的には電鉄や不動産)の経営が傾くから、政府として躊躇してしまうに違いない。
「でもね」と思うのは、そのような大胆な政策を打ち出さなかったから、日本の産業構造が1980年代のままであり、それも家電に象徴されるように海外に崩され、少しずつ廃墟と化してきた。
必要なのは、コロナ禍後の産業構造を見据え、政府が方向感を明確に示すことである。そのためには政府として責任ある行動をとることが求められる。今、政府は、その責任を担えないのだろうか。そのような政治家や官僚がいないのか。この責任のなさが、1990年以降の日本社会の凋落を招いている。日本が直面する最大の脅威とは、コロナではなく、この消極的な(つまり意図しない)政治家や政府の責任回避だとしか思えない。

2020/11/20


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