川北英隆のブログ

コロナを経た教育制度とは

コロナの感染拡大を経て、日本の初等、中等教育制度の欠陥が明らかになった。生徒が教室に集まり、一律の教科書と、能力格差のある教員の説明に任せ、その後はほったらかしというのが日本の授業である。この古い授業の形態、発展の可能性がある。
教育審議会で何を議論しているのかは知らないが、これまでデジタルを用いることを想定していなかった(想定していたとしても、それをほとんど無視していた)。このため、コロナによって右往左往してしまった。
デジタルを用いると、教育に対して何ができるのか。何が変わるのか。
まず、教科書が代わる。紙が従となり、デジタルが主となる。標準的な説明は、デジタルで配布される一律のもの(数種類)でいいのではないか。主たる教材がデジタルであれば、理解できるまで、何回でも学べる。見たことはないが、放送大学のようなものだろう。そのデジタルの補助教材として紙ベースの、今までに近い教科書がある。
教員の役割が変わる。これまでの授業の多くはデジタルに任せるため、教壇に立つ必要が減る。その分、生徒の能力に応じた指導ができる。これも実際には知らないが、学習塾が宣伝している能力段階別の指導のようなものか。遅れている生徒には、遅れを補う指導である。進んでいる生徒には、その興味をもっと伸ばす指導である。
通学は今まで通りでもいいのだろうが、学校を科目別・能力段階別に分けることも考えられる。インターネットを使い、「通学する」ことも考えていいのではないか。もちろん、いろんな友達とのコミュニケーションが大事であるから、リアルに通学することが大切だとは思うが、ときにはインターネットでの通学もあってよくて、そこでも新しい友達ができるだろう。
僕の友人が言うには、小学校に通う彼の子供は学習塾が提供するネットでの教材を楽しんでいるらしい。逆に、学校での授業がつまらないとか。できる小学生なのだろう。
思うに、平等主義で一律の教育を提供するのはどうなのか。理解できなければ、どんどん落ちこぼれていく。逆に、できる子供は「学校はつまらない」と思ってしまい、本来伸びる能力を伸ばせない。
この能力とは、いろんな能力の平均値のことではなく、特定の能力である。たとえば理系的能力、絵画的能力などである。僕自身は、結局のところ、人間の能力に大きな差はないと思っている。何かの能力が優れれば、何かの能力が欠ける。だとすれば、優れた能力を見つけ、それを伸ばすのが教育の役割ではないのか。
これまでのデジタルを使わない(使えない)教育では、平均的な教育しか方法がなかった。平均的な教材を用い、先生が平均的な説明をする方式である。とはいえ、すべての先生に平均的なことを説明する能力があるとは限らない。僕の経験でも、先生の能力は千差万別である。運不運がつきまとう。
デジタルでの教育が可能になれば、この旧来の風景が一変する。説明が得意な先生にデジタル教材に登場してもらい、説明してもらえれば、運不運の差が小さくなる。教室にいるリアルな先生から、分からないところや、もっと知りたいところを指導してもらえれば、生徒は勉強に興味を抱くようになろう。そういう新しい教育の姿を描くのが文部科学省の役割だと思う。
日本の将来のため、是非とも政府に粉骨砕身、頑張ってもらいたいものだ。

2020/11/25


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