川北英隆のブログ

コロナの1年とは何だった

今朝、政府に対する従順度が高い日経新聞にしては珍しい記事があった。ネット購読者限りらしいので題名程度しか知らないが、「医療敗戦」の見出しが踊り、「政府、自治体首長、そして医療界はこの(新型コロナの)1年あまり何をしていたのか」とある。
(ネット版だと思ったが日経新聞の本紙にも掲載されていた。)
日経新聞が書かなくても、「緊急事態宣言」を繰り返すだけの政府に対し、誰に会っても「あーあ」「飽きた」「呆れた」の「あ」の羅列と連続である。政府のトップとコロナ対策を直接担う歴代大臣以下厚労省の責任だろう。コロナへの対応に関しては長編小説を書けるほどの無力感を感じてしまう(無力感だらけだから長編小説を書けないのだが)。いちいち目くじらを立てても何も進まない、時間の無駄だからと、とうの昔に諦めている。
何故、何も進まないのか。国立大学という役所の出先機関で15年間ばかり仕事をしていて理解するのは、1つは役所の前例(先例)主義である。これはよく言われる。前例があると安心して行動できるが、前例がないと「石橋を叩いて渡る」ことになり、下手をすれば「石橋を叩いて壊す」ことになりかねない。思うに、そんな中で前例を作った人たちの偉大さである。
もう1つは、事務担当者の多くが文系だという事実である。文系の多くは記憶力で大学に入り、その記憶力で就職する。記憶力の差が成績の差である。では記憶力とは何か。
結局は先例があるのかどうかを「誰よりもよく知っている」ことに力が発揮される。テレビのクイズ番組ではないのだから、「あれとは、このことだ」と教えてもらっても仕方ない。「やっていいこととは、こういう悪い結果を出さないことだ」と、同義反復的なことを教えてもらうことに近い。同義反復なら、今はスマホに問いかければすぐに教えてくれる。記憶力を自慢することは、今となっては「私はスマホに近い」と自慢するのに似ている。
仕事をするうえで必要なのは、たとえば「悪い結果を出さないのは、背景にこういう状態があるからだ」と指摘できる、もしくは推論できることである。さらには、そういう望ましい状態を作るにはどうすればいいのかを立案し、推進する力である。
今の多くの文系は記憶力だけに留まる。日本の法学部の場合、法律の条文と判例を記憶する。そして、この条文や判例に基づけば、「このことをやってはいけない」と結論する。本当に正しいのだろうか。
重要なのは、この条文は何のためにできたのか、今の世の中においても望ましいのだろうかと考えることである。たとえれば信号機である。赤信号で道を渡ってはいけないのだが、この交差点に信号機が必要かどうか、常に見直すことが政府の重要な仕事である。
役所に対し、前例主義と同様に感じるのが自己保身である。「間違いは許されない」との意識の強さであり、強迫観念的なレベルにまで達している。
コロナ対策にしてもいろいろと文書が来るし、役所のホームページにもあれこれ書かれている。電車に乗るやかましくアナウンスしてくる。これらのすべてとは言わないまでも、多くは「ちゃんとやってまっ」という役所のアリバイ作りではないかと思ってしまう。「そんなことに血道をあげるくらいなら、もっと他にやることがあるやろに」と思える。アリバイ作りにいちいち付き合わされてはたまらない。
1年間以上も、そのアリバイ作りが続き、「我慢しろの一言に我慢できなくなった」のが国民の大部分ではないだろうか。もはや限界に近い。
この1年間、言われるがままに、お願いされるがままに我慢してきたのだが、では我慢しろと半ば命令を下した本人は何をしていたのか。検査を満足にしてくれない、入院させてくれない、濃厚接触アプリは機能しない、ワクチン接種情報をスムーズに管理できないと、ホンマに長編小説になる。前例を踏襲するが故に肝心なことに無策のままに近く、アリバイ作りだけが上手な政府に、さすがの日経新聞も音をあげたのだろう。今朝のネットニュースの見出しでそう思ってしまった。

2021/04/24


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