川北英隆のブログ

笠置を再訪する

M君と笠置を歩いた。少し前に日程を決めたのだが、梅雨に入り、曇天の予報だった。数日経つと雨の予報に変わった。低い山とはいえ、傘を差してまで歩くつもりもなく、どうなることかと思っていた。
次第に予報が良くなり、「かんかん照りかな」と前日に思っていたのだが、実際には雲の多い一日だった。梅雨時の予報は当たらない(スパコンといえども梅雨前線の位置を正しく予報するのは至難)。雨でもなく、かんかん照りでもなく、絶好の低山歩きの日和だった。
京都からはJR奈良線に乗り、木津駅まで行く。そこで関西本線に乗り換え、加茂駅に行き、さらに同じ関西本線だが亀山行きに乗り換え、笠置駅で下車する。加茂駅は大阪方面行きの始発駅である。加茂駅と亀山駅の間は電化されておらず、単線である。だから加茂駅で乗り換える必要が生じる。木津駅の隣が加茂駅、その隣が笠置駅なのに。
そうそう、木津駅には片町線(今は学園都市線との愛称が付き、あの大事故のあった福知山線と結ばれている)、奈良線、関西本線が乗り入れている。田舎のターミナル駅風である。子供の頃は本当に田舎駅だったが、1984年に奈良駅と木津駅の間、88年に木津駅と加茂駅の間が電化され、大阪からの電車が加茂駅まで乗り入れるようになった。日本が輝いていた時代のイベント然としている。
もっとも、木津駅と加茂駅の間はまだ単線だった。ウイキペディアによると、2004年、複線化するようにとの答申が出たらしいのだが、今の人口動態では無理だろうなと思う。加茂駅が大阪からの電車の終点ながら、木津駅を過ぎると完全なる田舎を走っている。
と、鉄道オタク的に長々と書いた。もちろん僕は鉄道オタクではない。この地域を多少知っているだけに、その変貌に関する歴史を少し調べてみただけである。
M君は八木(橿原市)に住んでいるので、桜井線、関西線経由である。木津駅で出会った。
加茂駅からはディーゼル、1両の列車である。1時間に1本だから座席は埋まっていて、少し密である。1駅とはいえ、距離にして6.7キロある笠置まで(その先、伊賀上野までの多くもそうなのだろうが)、木津川の峡谷を縫って走る。大雨がふれば土砂崩れしかねない。2箇所だったか、それを防ぐため、コンクリートで半トンネルになっていた。
笠置だが、後醍醐天皇が笠置山に籠もり、鎌倉幕府と戦ったことで知られる。その以前から、笠置山には寺院があり、東大寺や興福寺との繋がりが深かった。
はるか昔、奈良の寺院を建立するため、木津川を使って木材を運んだ。石材もあったかもしれない。木津でこれらの資材を舟から下ろし、平城山を越えて奈良まで運んだ。笠置山の麓は、地形的に木津川の関所的な役割を果たしたのかもしれない。木津は、名前のとおり川の港である。
1932年、国が笠置山を中心とした木津川沿いを史跡名勝地に指定したからだろう、昭和には観光地として賑わったそうである。だから僕らの世代は、近畿に住んでいると一度は笠置を訪れたはず(大袈裟かな)。カミさんは大阪出身だが、遠足で笠置を知っている。僕は父親に連れられて複数回(2回もしくは3回)、笠置を訪れている。
その笠置、駅を出るとかつてと大きく異なり、寂れ具合がすぐに伝わってきた。旅館や料亭などもあるのだが(あったのだが、かな)、人の気配が99%なかった。笠置山に登る道も寂れていた。
以上、横道に大きく逸れてしまった。笠置山は「続く」にしておく。
写真は笠置駅の跨線橋から見た笠置山(手前の小山)である。標高288mの山頂は左側のピークである。
20210524笠置山.jpg

2021/05/29


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