川北英隆のブログ

エリートはどこにおるんや

あるネットニュースの見出しに、エリートを讃えていたか、エリートを目指すにはとかの文字があった。この類のエリート礼賛を見る度に、「せやからコメツキバッタ的な生き方しかでけへんのや」と思う。昆虫のコメツキバッタさん、別にペコペコしているわけでないが。
小学2年生か3年生の頃、勉強の全くできない同級生が同じ学級にいた。一度、先生に言われてその同級生を自宅に迎えに行ったこともある。元遊郭の立派な家に住んでいた(小学生からZ会ならぬ遊郭通いかいな)。複雑な事情があり、学校が嫌いだったのだろう。
ある日、図工の時間にその同級生が褒められた。見ると、子供離れした(少なくとも僕の手が届かない)絵を書いていた。「(思いがけないという意味で)変な才能があるのやな」と感心した。そのことをかなり鮮明に記憶しているし、その同級生の名字も覚えている。その後、どうなったのかは知らないが。
当時の記憶もあり、もちろん大人に(もしくはそれ近くに)なってからだが、人間の才能って様々だと思うようになった。
この事実からすると、個々人の潜在的な才能を早い段階で見つけ、もしくは見つけてもらって、それを伸ばすことが重要である。そう思っている。
学校での勉強は、極論すればどうでもいい。高校までの勉強は才能を見つけるのに役立つか、将来見つかるだろう才能のための肥やしでしかない。大学は才能を真っ直ぐに伸ばすための道標でしかない。
日本の教育の欠点は「覚えること」に全精力を集中させることにある。それも一生の中で一番大切な中学から高校の年齢に。覚えることに集中したところで才能が伸びるわけでもない。才能を伸ばすには、好奇心を持つ(持たせる)ことだと思っている。
好奇心を持ち、その関係領域を探っていくと、周辺知識が蓄えられ、それがいずれ生きてくる。何でもかんでも知識として詰め込むと、クイズ番組に強くなるかもしれないものの、普通人は頭がパンクし、発展が途切れる。あるいは文字通りの奇人変人になりかねない。
僕の場合、残念なことに早い段階でO型人間だと知った。血液型を徹底的に信奉するわけではないが、O型とその性癖なるものを知り、肩の荷が下りたように思った。「いい加減でええんや」と。徹底的に記憶する必要(必然性かな)がなくなり、気が向くままに行動していいと、気が抜けた。この結果、根が真面目そのものの僕が(どこがやねん)、気も狂わずに今を迎えている。
とはいえ、疑問に思ったことは徹底的に(そこまでではないが)考えている。山歩きでも計画はそれなりに立てているし、計画を実現するための道具も知識も揃えている。
思うに、人間の才能はいろいろである。立派だと言われている人間にも、少し知るだけで多くの欠点が見つかる。「そんなものだ」と思うのが正解だし、それが正解だと知れば、多少の失敗をしても、そんな自分を許せる。
もっと言うと、勉強だけが人間の値打ちではない。もしもそれが人間の値打ちだとするのなら、日本のトップは、芸術の分野を含めて東大の天下のはずなのだが、そうでないのは明白である。むしろ、東大の落ちこぼれや、誰にも好かれないのがわんさかいる。
今夜はぐっすり寝ることにしよう。

2021/06/14


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