川北英隆のブログ

伊勢街道と中央構造線

今回の局ヶ岳、途中の東吉野の鷲家から櫛田川の間にも関心があった。かつて父親が車を運転して高見山に連れて行ってくれたことと、父親の知人が櫛田川流域の出身だと聞いていたから。
高見山には中学生の時と高校生の時に登った。季節は春と秋だった。
当時、鷲家(わしか)から木津(こづ)峠を越えて高見川に入ったのだが、峠を越えた付近から高見山のすくっとした姿が見えた。最後の集落(杉谷)を過ぎると狭く曲がりくねった山道になり、標高900mの高見峠に着く。そこから高見山(1248.4m)まで直登だった。
高見峠から東側は大きく落ち込み、櫛田川の谷は深そうだった。それもそのはず、高見川は標高400m程度で一旦傾斜が緩くなるのに対し、櫛田川は300mを割るくらいにならないと緩くならない。そんな櫛田川には入ったことがなかった。
残念ながら今は木津峠も高見峠もトンネルでくぐってしまうから、かつてのダイナミックさは消滅に近かった。とはいえ高見トンネルを抜けると、道ははリボンのように弧を描き、櫛田川へと下りていく。かつての厳しい峠道の名残である。
この高見川と櫛田川は中央構造線に近い。ネットの地質図を見ると高見川から高見峠がほぼ構造線の上にあり、櫛田川上流部は構造線の少し南に、局ヶ岳は少し北に位置する。櫛田川沿いには「月出の中央構造線」への道の表示もあった。月出という村は中央構造線の露頭で有名だそうだ。近くに、黒石谷、赤岩谷という地名もある。
ついでに、高見峠付近のネットの地図を見ていて気づいたのだが、櫛田川は源流地域まで松阪市である。僕の持っている紙ベースの地図には飯南郡とある。明治時代、飯高郡と飯野郡が一緒になり、飯南郡になったとか。当時の松阪は松阪町として飯高郡に属していた。
父親の知り合いが櫛田川のどこに住んでいたのかは不明である。森本といい、メリヤスを営んでいた。父親とは確か、川釣りにたまに出かけていた。櫛田川だから川釣りだったのだろう。
その知り合いがガンで亡くなる直前、「熟柿を食べたい」と言っとか。それ内縁の奥さん(大谷さんといった)が父親に伝えたので、僕が柿を探しに行った。
そうそう、もう1つ書き忘れていた。鷲家から高見峠を越え櫛田川に抜ける道は伊勢街道と呼ばれ、M君が言うには、紀州の殿様が参勤交代のために使ったとか。和歌山から伊勢湾に抜ける最短コースではあるが、標高900mの峠を越えるのは並大抵でない。殿様は籠に乗ったのだろうかと余計なことを考えてしまう。
鷲家は宿場町として栄えたとか。幕末には天誅組が最後を迎えた地としても知られている。僕は後者だけを知っていた。これも残念ながらだが、今の国道は鷲家の村の上、バイパスを通ってしまう。ネットを検索すると町並みの写真が出てくる。
ここでは局ヶ岳を遠くから見た写真をアップしておく。青山高原から見たものである。一番奥、中央左側になる。右端は三峰山である。
20211031青山高原からの局ヶ岳.jpg

2021/10/31


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