川北英隆のブログ

余呉の行市山

滋賀県北部、越前の入口に近い行市(ぎょういち)山を歩いた。北国街道(東近江路)の近江側、余呉町南部の山である。
余呉という地名を有名にしているのは賤ヶ岳の合戦である。織田信長の後継をめぐり、羽柴秀吉と柴田勝家とが戦った。その時に多くの砦が築かれた。その1つが賤ヶ岳にある。
賤ヶ岳は琵琶湖北部と余呉湖を区切っているから、滋賀県の北部に位置する。その余呉湖は余呉町の一番南にある。
地図を広げればわかるように、余呉湖からほぼ真っすぐ北へと谷筋が伸び、余呉町が続く。その最北が栃ノ木峠である。余呉湖から栃ノ木峠まで直線距離で約20キロある。この谷筋に沿って北国街道が通っていた。峠を越えれば越前、今庄であり、福井が近い。柴田勝家が越前から(主君織田信長の居城)安土への最短コースとして整備したらしい。
余呉の谷の両側にいくつか山がある。昨年6月、その東側の新谷山を七々頭ヶ岳と組み合わせて歩いた。今回は谷を挟み、新谷山のほぼ向かいの柳ケ瀬山(460m)と行市山(659.7m)を歩いた。
京都から行くには東海道本線・北陸本線を使って木ノ本駅に出る。駅前から余呉バス(中河内もしくは椿坂行き)が出ていて、北国街道を栃ノ木峠近くまで上がっていく。
それを使って柳ヶ瀬で降りる。柳ヶ瀬にはかつて関所があった。敦賀(若狭)に越える道が分かれていたから、国境警護のためである。
柳ヶ瀬からその敦賀への道を歩く。刀根越えと呼ばれる道で、倉坂峠を越すと、後は谷沿いに敦賀に出られる。北陸自動車道が通っているコースに近く、北陸本線が当初に使っていたコースでもあるらしい。峠まで高度差180mくらいである。道は整備されている。
倉坂峠から柳ヶ瀬山を往復する。この山は玄蕃尾城と呼ばれた城跡であり、柴田勝家が陣取ったとされる。国指定の史跡として整備されている。
峠に戻り、南へ上がって尾根を歩く。倒木があって踏み跡が時々乱れるものの、全体に明瞭な踏み跡が続く。ブナの林も見られる。笹が多くなると、行市山の広めの山頂に着く。東側が切り開かれていて、伊吹山、金糞岳、横山岳の連なりが見られる。
行市山から南へとさらに尾根を歩く予定でいたが、コースの入口に笹があり、歩き難そうだったため(あまり気合も入っていなかった)、東へ下り、新堂という麓の村に出た。行市山への登山コースとして整備されている上に、砦跡がいくつもある。賤ヶ岳の合戦時に柴田勝家側が陣取ったとされる。それらを見学し、往時を偲んだ。
新堂からは適当な時間のバスがなかった。余呉駅まで歩き、塩津駅から湖西線に乗り換え、京都に戻った。
柳ヶ瀬から柳ヶ瀬山まで55分、柳ヶ瀬山から行市山まで85分、行市山から新堂まで80分、新堂から余呉駅まで50分だった。
写真、上は柳ケ瀬の家並みと柳ケ瀬山方面、下は新堂からの行市山である。
20220429柳ケ瀬から城跡を.jpg

20220429新堂からの行市山.jpg

2022/04/29


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