川北英隆のブログ

行市山を越える

倉坂峠に戻り、行市山への縦走路を探した。刀根越えの道のイメージがあったので、すぐには見つからなかった。道は峠の少し敦賀寄りにあり、南へと斜面を這うように付けられている。かつて木の階段が設置されていたようだが、それがない今は滑りやすい。
登るとすぐに傾斜が緩くなり、後は尾根道をたどるだけである。急なアップダウンはない。西側が植林、東側が広葉樹林の中を道が続く。踏み跡はほぼ明瞭なのだが、倒木が所々にあり、その付近で少し怪しくなりがちだった。
620mの等高線ピーク越え、行市山の登りになる。ブナが多くなる。この付近でツツドリが鳴いていた。そのうち笹も出てくるが、シカに食べられるのか、枯れ気味だった。霊仙山の笹がすっかり姿を消したことを思い出した。
行市山の山頂は、北のほぼ同じくらいの高さのピークを巻いた地点にあった。三角点(659.7m、点名は行市山)の南東側が刈り払われている。余呉の長い谷と、その奥に伊吹山、金糞岳が見え、少し移動すると横山岳も見えた。その横山岳の手前を守るように七々頭ヶ岳と墓谷山もある。
それらを眺めながら、どう下るのか考えた。予定では行市山からさらに南へと尾根をたどり、余呉湖の北側に出るつもりだった。一方で、行市山の東尾根を下ると砦跡がいくつかあり、魅力的だった。行市山も砦跡で、浅井が領主の時代に東野行一(これが行市山の由来)が築き、それを柴田が活用して家臣の佐久間盛政が陣取ったとある。
昼食の後も思案しつつ、南に下った。すぐに東尾根と南の尾根筋との分岐に出る。まずは南の尾根筋への道を探したのだが、枯れた笹が多く、踏み跡が定かでない。尾根を少したどれば明瞭になるのかも知れないが、そこまでする気にもなれなかった。
そこで東尾根を下ることにした。広葉樹林の中の明瞭なハイキングコースである。その下りの途中、最初に出てくるのが別所山砦跡である。444mの独立標高点の地点にある。その後、すぐに林道を横切り、少し登って中之谷山砦跡に出る。三角点(368.4m、点名は新堂)があり、プレートには中谷山とあった。
中谷山から下り、小さな鞍部に着くと史跡案内板がある。それにしたがって北東に尾根をたどると小さなピークに出る。林谷山砦跡である。鞍部に戻り、少し北に下りると橡谷山砦跡がある。
鞍部に戻り、後は南東に尾根を下るだけ。獣避けを抜け、きれいに掃除された墓地の横に出る。賤ヶ岳の合戦に敗れた柴田勝家を福井へ逃すために討ち死にした毛受(めんじゅ)兄弟の墓がある。新堂の北に当たる。
新堂の村を抜け、国道365号線に出て、それを余呉駅の手前、中之郷まで歩き、適当に西に折れて駅に出た。駅の入り口は南側にしかない。駅に着いた時間帯は余呉の1つ敦賀寄り、塩津に行き、そこから湖西線で帰るのが早かった。大阪近郊区間なので運賃に差はない。
写真、上は行市山の手前で見たブナ中心の林、下は行市山からの横山岳と、その手前の七々頭ヶ岳(左)と墓谷山(右)である。横山岳の右の稜線は金糞山に続いている。
20220430ブナ林.jpg

20220430横山岳を.jpg

2022/04/30


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