川北英隆のブログ

小物は有罪、大物は無罪

物事は多様に見なければならない。手品と同じで、感心するだけではなく疑いの目で見る必要もある。事例は、一般に咎められることも、その規模が大きくなれば許され、時には褒められることだ。
2008年のリーマンショック時によく使われた言葉に、「大きすぎて潰せない(too big to fail)」がある。「本来なら潰すべきだが、あまりにも社会的な影響が大きすぎるので潰せない」の意である。顔にできたニキビなら取り除いたらいいが、脳にできた腫瘍を切除するのは難しいのと同じだろう。
しかし、この規模というか重要性というか、そのメリットを悪用する例も多々ある。
戦争がその最たるものだろう。殺人は罪である。多数を殺せば、日本では死刑に値する。しかし国が戦争を、もしくは他国への侵略を宣言すれば、その国の国民は「正義」にもとづいて殺人が許され、多数の敵国民を殺せば英雄視される。
最近の日本でも、小物が行えば犯罪になり、もしくは非難されることを、大物が堂々とやる好例がある。それをここでメモしておきたい。いずれも日銀という大物の事例である。
1つは相場操縦である。
中央銀行の役割の1つとして、金利水準を決め、もしくはそれを実現するために「現金もしくは日銀への預金の量」を操作することを指摘できる。これも一種の相場操縦なのだが、中央銀行の特殊性に基づき、認められている。というか期待されている。
それでは、債券価格や株価の操作が認められるのだろうか。黒田総裁になり、日銀は債券(主に国債)と株式を大量に買ったし、まだ買い続けている。今の日銀は、債券の利回りが高くなると(同じことだが、債券価格が低下すると)債券を買う。
あるフリーの記者が言うには、債券価格が下落すると日銀が保有している債券の評価額が下がり、損失(実際のところは含み損)が発生しうる(すでに日銀が保有する債券全体は含み損の状態に陥った)。その時に日銀が債券を買い、価格の下落を防ぐのは相場操縦と同じだと。
株式も同じである。株価が下がると(最近は稀になったが)日銀が株式を買う。
相場操縦を直接的に意図しているわけではないものの、結果は相場操縦と同じである。とくに株価は日銀の本来の政策目標から遠い。なのに日銀に対して苦言を呈する向きは少ない。
もう1つは債権者としての当然の役割の放棄もしくは無視である。
個人もそうだし、銀行もそうだが、他者にお金を貸すと、その保全に腐心しなければならない。大手の株主にもその義務が半ば課されている。投資している企業の経営が良くなり、株価を上げるため、企業と議論する、いわゆるエンゲージメントの必要性である。
日銀の場合、株主としての役割を横に置くとしても、国債という国の借金の半分を保有している。それなのに、国の財政(つまり国の財布の中身)に対して何の心配もしていないようだ。500兆円以上も保有している国債が紙くずになるリスクを心配しないのだろうか。そこまでいかなくても、まだまだ国債を買い続けるわけだから、「どこまで買えばいいのか、量が多いと心配になる」程度のことを国に申し立ててもいいのではないか。
2013年1月、「政府・日本銀行の共同声明」(アコード)が公表された。日銀のページにリンクしておく。その一文には「政府は、日本銀行との連携強化にあたり、財政運営に対する信認を確保する観点から、持続可能な財政構造を確立するための取組を着実に推進する」とある。
このアコードに基づき、日銀は政府に注文を付けることが当然だ。しかし政府の財政は膨張を続けている。コロナをいいことに、政府というか政治家は現金のバラマキを続け、財源としての国債の発行額を手放しで増やしてきた。
日銀が債権者としての当然の役割をためらっているのは、少なくとも広く国民に伝えないのは、日銀は政府の子分だと心底思っているからか。この日銀の言動のなさは、「小物がやると咎められるが、大物だから許される」類のものではない。むしろ大物だからこそやるべきだ。いかがだろうか。

2022/12/12


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