川北英隆のブログ

知多半島と本多君

知多半島の丘歩きをしながら思い出したのは、前の会社に同期入社した本多君である。知多半島の付根、刈谷支社だと記憶しているが、そこへの転勤がきっかけとなり、転職した。1980年代後半のバブル時代の話しである。本多君が亡くなったのは2012年10月だった。
2012年10月14日に訃報をアップしていた。
何年間だったかは忘れたが(多分2年間)、同じ部に所属した。資金債券部(多分そういう部名)である。本多君は債券投資課、僕は証券金融課だった。債券投資課は債券を売買し、投資するセクションだった。
本多君は社交的だったから、証券会社の担当者とすぐに仲良くなり、広いつながりを持っていた。ずっと債券市場の仕事をするつもりだったようだ。それが急遽、それも意に沿わない転勤命令が出たものだから不満タラタラで、結局は1年足らずで(これも多分)会社を辞めて外資系の証券会社に転職した。その後25年ほど、亡くなるまで債券市場に関わった。
バブルの当時、専門的な人材なんて不要だと多くの日本企業が考えていた。つい最近まで、この企業の意識に大きな変革がなかったのも事実だが。変な国だった。
その刈谷支社がどんなところに立地していた(いる)のかは、中京(ちゅうきょう)地域に不案内な僕としてはわからない。ちなみに今住んでいる京都市には中京(なかぎょう)区があり、時々「ちゅうきょうく」と読まれてしまう。
今回の丘歩きでも刈谷市を通ることがなかった。付近に山もなさそうだから、今後も刈谷に行く機会は皆無に近いだろう。それに本多君もほんの少ししか住んでいなかったのだから、どうでもいいと言えばどうでもいい。
本多君の実家は有明海で漁師をしていたらしい。本人が語るには、一攫千金の世界だったようだ。だから本多君も債券市場なのかなと思っていた。
本多君が亡くなって10年少しが経過した。同期の僕らはその10年間を、確か1人を除いて生き延びた。とはいえ、70歳を過ぎると満身創痍である。先日、東京で同期会があった。近況報告のネタは病気や老々介護にからんでいた。アルツハイマーになったのや、体調不良で「欠席」の連絡のあったのとか、同期会の案内に返信がないのやら、もはや老人会そのものである。
本多君は惜しまれつつ逝った。今となっては、やはりラッキーと言うべきかもしれない。

2023/04/11


トップへ戻る