川北英隆のブログ

霊柩車に乗る1

「霊柩車に乗る」なんて、死んでいたらブログが書けないし、その関係のバイトをしてるわけはないし、要するに喪主になってしまったわけだ。目出度くも、父親が94歳の手前で逝った。
日曜日、病院から携帯の留守電に電話が入っていた。
先週の木曜日も病院から電話があった。父親には不整脈があり、薬をもらっていたのだが、秋口の母親の入院以降、その薬を飲み忘れていたらしい。そのため、気づくと足が浮腫んでいた。即刻入院となった。先週の木曜は入院して2週間目くらいだったか。電話は看護士からで、「担当の医師が面会したいと言っているので病院に来てくれ」とのことだった。「アカンのかな」と思って会ったところ、「大分良くなってきて、もう10日程で退院できるが、退院した後はどうする」との質問だった。「病院に併設の介護老人施設があるので、治療を継続するために、そこに数ヶ月入るのが望ましい」と勧められた。
日曜日もその電話かなと思った。当日、京都産業大学で証券経済学会が開催されていて、そこでの発表とパネルがあったので、その後で電話と思っていた。発表の直前、また電話があった。会場の外に出て電話に出ると、「心停止、すぐに来て欲しい」とのこと。でも学会をドタキャンできないし、行くにしても実家まで数時間かかるので、「会議が終わったらすぐに向かう」と返事した。
「亡くなった後、どうしたものか」を考えながら学会での発表を行った。少し注意力散漫気味だったのは確かだが、芸能雑誌などによくある「涙をこらえながら」の状態にはならなかった。
実のところ、京都産業大学に向かうバス中で、朝の留守電と、病院で見た痩せ細った父親の姿を思い出し、「衰弱しているのは唯一に近い楽しみ、晩酌の日本酒も飲めずに栄養を摂取できていないからだろう」、「施設に入ってリハビリをしても、日本酒が飲めないのなら可哀想」、「もう十分に生きたのだから、安らかに亡くなるよう、神様、お願い」と思っていた。
パネルの直前にもう一度電話が入った。「亡くなった」、「何時に来られるか」とのことだった。すでに母親と妹と家内に状況を知らせてあった。母親は間に合ったようだ。
学会が終わり、郡山の実家に向かった。その前に家に寄り、気づいたスケジュールをキャンセルし、締め切り原稿の続きを書くためにパソコンとファイルをザックに詰めた。当然、30年以上使っている礼服関係も。京都は観光シーズンのまっただ中、混雑する地下鉄と近鉄を使った。産業大学を出た瞬間から計算して、郡山まで4時間かかった。行く途中、心のなかで神様にお礼を言った。

2011/11/30


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