川北英隆のブログ

京大の大学入試に思う

昨日と今日は大学の入学試験だった。毎年のように試験監督に駆り出された。試験監督手当はもちろん、昼食の弁当も出ない、それでいて重労働である。でも、いろいろと世の中が見えてくる。
大学近づくと受験生が多くなる。大きなホテルはバスを仕立てて受験生を送迎している。タクシーも大忙しだから、道は混雑が激しい。どの大学でもそうだろうから、大学の多い京都では一大イベントである。
歩いている学生を見ると、親子連れが1割以上を占めていそうだ。中には両親が揃って子供を連れている場合もある。すべてを子供に賭ける勢いだが、大学に入っただけで偉くなるとは全く保証されていないのだから、変な賭けである。それで思い出したのは、ある学生がノイローゼになったため、両親がその学生を連れて大学に相談しに来た例である。親しい友人ができなかったのがノイローゼ直接の原因だと思う。子供の世話を焼くにも一定の限度がありそうだ。
今年の入試問題をざっと見た限りでは、記憶だけで解答できないものが多くなっているようだ。歴史にしてもそうである。それにしても、どの受験生も時間ぎりぎりまで必死に問題と格闘している様子だった。もっと早く切り上げように思えば切り上げられるのにと思う。
それと同じことだが、文章で答えないといけない問題に関して、下書きをしている受験生が多い。字数の上限が与えられている場合であっても、適当に書けばいいのではないかと思うし、学生の頃はそうしていたものだ。僕の友人にも「下書きをしないと」と主張するのはいなかった。
世の中が慎重になったのか、妙に緻密になったのか。採点する側からすると(大学入試の採点は経験がないものの、他の試験の採点の例からすると)、ポイントを押さえて解答しているかどうかが最重要であり、文章の細かな上手下手までは評価する時間的余裕がない。もう少し言えば、そこまで評価すると主観が大いに入ってしまうので、むしろ避けている。ということで、下書きなしに大胆に答えていいと思うのだが。
以上は日本全体が極端にマニュアル化した証拠のように思える。これでは大物は出てこない。

2013/02/26


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