川北英隆のブログ

古き良き奈良を思い出す

叔父の通夜のため橿原に出かけた。もう少し細かく言うと、坊城(ぼうじょう)で電車(近鉄)を降り、式場まで30分程度歩いた。というのも、坊城に亡くなった叔父さんが住んでいたから。
坊城の親戚は、元々僕の父親の父の妹(父親から見ると叔母さん)の嫁ぎ先である。父親の叔母さんの名はフクと言ったらしい。「らしい」とは、子供として名前で呼んだことはないし(「オバアちゃん」だったか、もしかして父親が「叔母さん」と呼んでいたのでそれを真似て「おばさん」だったか)、家で親戚の話題になるときは、その地名で(この場合であれば、「坊城のは」という具合に)呼ぶのが普通だったから。名前をちゃんと知ったのは、父親が亡くなり、相続の関係で原戸籍を入手したからである。
そのフクさんが実家に遊びに来た時、「一度、坊城に遊びに来るか」となり、喜んで遊びに行った。実は他の家に遊びに行くのが好きである。多分目先が変わるからだろう。今でも(多少親しければとの条件は付くが)好きである(だから、京のぶぶ漬け風の感覚で「一度おいで」と言ってもらえれば、すぐに本気にする)。その後、中学生の前後まで、夏休みに何回か遊びに行った。
坊城は薬と雑貨を売っていた。今で言うドラッグストアである。裏は神社だった。すぐ横を大和川の支流、曽我川が流れていた。その流れに吉野川から疎水が引かれたというので(地図で確認すると、下市から吉野川の水が引かれている)、滔々と流れる水を見に行ったこともある。畝傍山が近いので、そのお祭を見に行き、たくさんホタルが飛んでいるのに感動したこともある。お爺さんに(フクさんの旦那だったのか、義父だったのか記憶が定かでないが、多分義父に)、真夏の日中、近くの丘に虫取りに連れて行ってもらい、戻った時のジュースが素晴らしく美味かった記憶もある。
最後に坊城に行ったのは大学生の時だった。免許を取ってすぐの頃、実家に来たフクさんを車で送っていったのかもしれない。それとも病気見舞いだったのか。僕にとって、最初で最後の車を運転しての遠出でもあった。
そんな坊城に叔父さんが何故住んでいるのか。「計算が合わへんというか、説明でけへんやんか」となろう。亡くなった叔父さん(川北憲夫)は父親側の弟である。叔父さんはフクさんの娘(知子さん)、つまり従妹と結婚した。結婚はいつだったのか。従妹との結婚について親族会議があるとかで、父親が自分の実家に呼び集められたことだけは覚えている。
というわけで、坊城がどうなっているのか、ぶらぶら歩いたわけだ。地方に行くとどの町もそうだが、やはり寂れている。坊城の店は叔父夫婦が趣味的に細々とやっているらしい。かつての活気はもちろんどこにもない。裏の神社も昔に比べて小さく見えた。通りにある大きな土塀の家も、いくつかは荒れ果て、その横にアパートが建っていたりする。
日中でも深淵が目の前をさっと横切るような、また飛鳥時代からの歴史だろうか、真綿が何百メートルも降り積もったような、かつての風景の重みが消え去っていた。
その代わり、東には吉野の前衛峰というべき音羽山から竜門岳が、西には葛城山と金剛山が高く聳えていた。いずれも1000メートル前後のいい山だ。「こんなに近いのか」と、子供の頃、これらの山々を完全に見逃していたことに気づいた。「当時はなかったのかも」とは、さすがに思わなかったが。
追記(2014.07.10):記憶があいまいだった。憲夫(K-N)叔父さんと結婚したのは(Y-T、すなわち知子おばさん)はフクお婆さんの孫だそうである。記憶をたどると、父親が出席した親族会議の後、母親が「従姉妹ではなくて・・」と、父親に確認していたと思う。とすれば、虫取りに連れて行ってくれたのはフクお婆さんの子供だったのかもしれない。まだこの点は十分に確認できていない。
それと、知子おばさんの実家の苗字は「米田」であるから、「よねだ」と読んでいたが、「こめだ」であった。これも、子供の頃にそう聞いた記憶があった。だからY-TはK-Tと書くのが正しかった。いい加減なヤツがいると歴史が歪んでいく証拠である。何て。

2014/05/26


トップへ戻る