川北英隆のブログ

日本と中国の社会主義対決

昨日の経済教室、上村達男氏の議論は、いつもの上村節ではあったが、久しぶりに痛快であり、賛同できるところが多かった。ついでに、今の日本は中国的社会を目指しているのではと思った。
スチュワードシップ・コード、コーポレートガバナンス・コードは、それが指針である限り、正しいことが書かれている。しかし、それが強制力を帯びれば帯びるほど、「変」だと感じてしまう。
まず、上村氏が書いているように、投資家には様々なスタイルがある。それにもかかわらず、すべての投資家に向かって、「対話や対話、対話が重要や」と説教するのは(スチュワードシップ・コードを読むと、言い訳用の数行の注だったかはあるものの、全体が対話というモノトーンに近いことから)、「ほっといてくれ」である。
僕自身、いろんな講演で喋っているのは、「対話の他に、売るという方法もあるし、買わないという方法もある」との事実である。スチュワードシップ・コードを勘ぐれば、「まず何でもいいから株を買え、買った後、値下がりすれば(株を売るのではなく)その企業に文句を言え」と政策誘導したいのではないか。要するに、バブルでも何でもいいから株高にしたいだけのような。もう少し言うと、公的年金が日本株に大量に投資した後、株価が下がれば、「年金資金での株式投資を受託したアセットマネジメント会社が、企業との対話をさぼったから、株価が下がった」との逃げ道を確保したのかもしれない。
コーポレートガバナンス・コードの目玉は「2名以上の独立社外取締役」である。もちろん、独立社外取締役が複数いることは僕の経験からしていいことだとは思うが、逆に、複数の独立社外取締役がいなかったから、すべての日本の企業はダメだったのだとの論調は間違っている。この点、コーポレートガバナンス・コードは形式的過ぎるのではないか。
そもそも、日本企業がダメだった要因の1つは経営や投資家がアホだったことにあろうが、もう1つは老舗である市場の、それも高級品の棚(第一部市場)に腐った企業や腐りそうな企業を並べたことにも問題があった。
これも講演で喋っているが、上場基準が日本の大学と一緒でtight and loose(入ったら天国)であるのが問題である。上場廃止基準や格下げ基準をしっかり設定、運営し、最低限、腐った企業を老舗の店先から除け、高級品の棚から下ろすようにすべきである。この責任は東証と金融庁にある。その責任への回答がコーポレートガバナンス・コードという形式であり、行動責任を完全に企業側に押し付けたとすれば、「本末転倒」であり、「東証(金融庁)は、本来の役割を忘れ、自己の責任を他に転嫁しようとしているのでは」と思える。
ついでに書くと、この2つのコードが提示されたため、「ROE(株主資本利益率)を高めよ、配当性向を高めよ」との議論が盛んだが、これも形式論すぎ、アホである。肝心なのは、ROEではなく、ROA(総資本利益率)であり、付加価値率であり、成長か配当か(利益は成長に用い、想定している成長戦略に用いない分を配当に回す企業戦略)である。アメリカには、過去を含め、アップル、グーグル、マイクロソフト等、無配当の優良企業の例がたくさんある。
まとめると、日本型資本主義は政府の号令により、形式的、単一的になろうとしている。政府が命令し、それに従う企業経営や投資家とは、社会主義そのものだろう。そこで思い起こすのが、共産党一党支配ながら、ハチャメチャとも言える企業群が育つ中国である。しかし、根幹を共産党政府が握り、特定の方向に向かわせようとしている。基本的政治理念は異なれ、共通の方向を目指す両国。だから仲が悪いのか。

2015/04/03


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