川北英隆のブログ

上目遣いの会社生活

働き方改革で一番重要なのは労働時間というか、残業問題だろう。身体を使うのではなく頭を使う仕事なら、いつ、どこででも可能だ。残業なんて関係ない。というのは本当なのか。ホワイトカラーについて考えてみたい。
教員というヤクザな(良く言えば自由業)をしていて思うのは、人間って自由でありすぎるのも良くない。少し説明しておく。
教員には実質的に親分がいないから(正確には、今の日本で教授になれば、その後は遊んでいてもほぼ身分が保障されているから)、目標は自分で設定せざるをえない。「そんな自縄自縛のことを誰がやるのかい」というところだが、それでもある程度通用してきた。今までの教員の半数以上は研究や講義が好きだったから。今後は知らないが。
ここから考えるに、良い仕事をするには、完全ではなく適度にほったらかされているのがいい。言い換えれば、ある程度束縛されていないと仕事ができない。束縛の上での目標設定が大切である。
この点、サラリーマンは幸か不幸か親分がいて、縛りの強さは組織によって異なるだろうが、一応ノルマがある。そのノルマを達成できなければ、最悪の場合、降格やクビという罰が科せられる。逆にノルマを超過達成してもわずかな褒美しか出ないのが日本の現実だった。つまり、加点主義ではなく、減点主義の傾向が非常に強かった。
減点主義の背景に何があったのかは後で述べるとして、模範的なサラリーマン(出世街道をひた走ろうというサラリーマン)なら、減点されないように振る舞うのが賢い。
このため、上司よりも先に帰らず、とくに急ぎの用事がなくても残業することになる。そもそも残る必要がないから、多くはサービス残業にしてしまう。残業を付ければ上司に睨まれて逆効果かもしれない。
なるべく休まないのも模範的なサラリーマンである。休むと上司から嫌味の一つも言われるかもしれないし、休んでいる日に同僚から告げ口されるかもしれない。
こんな上目遣いの会社生活が日本の常識となった1つの理由は、上司に人を見る目がないからだろう。部下の仕事の質を評価できないからでもある。質より量ということかもしれない。上司の上司も同じことで、最終的には社長にまで行き着く。
もう1つは、日本の労働市場が(労働関係の法律が)人材の流動(つまり転職)を原則としていなかったからである。終身雇用制という理想の追求である。最初に述べた教員がその典型だろう。適当に働き、加齢によって働けなくなるまで給与をもらう。実際のところ定年制はあるものの、老後のことは退職金や年金で面倒をみてもらう。
このような労働市場は戦後に確立した。しかも当時の企業は高度成長期を迎え、全般的に景気が良く、労働力が不足していた。極論すれば、普通に働いてくれるのなら誰でも良かったし、経営者として人事政策に力を入れる必要もあまりなかった。
今の日本の労働慣行とは何か。(企業が潰れるかもしれないものの)終身雇用を標榜した制度、実力主義は後回し、転職が難しく新卒採用が主流などである。年齢とともに給与が上がる制度(年功序列)も、「残業する奴がかわいい」と同じだろう。
これでは世界に通用するはずもない。働く側としても、若手中心に、そんな日本企業に嫌気がさしている。実力を有した者は正当な待遇を求めて海外に流出する。国内に残った人材は平均程度かそれ以下、そういう時代が到来しつつある。
このような事態に直面しつつある日本企業だが、どこまで反省し、変身できるのか。経営層の意識改革と、若手に対する権限委譲がポイントだと思う。これを断行できる企業はどこなのか。企業で働く者としても、株式などで投資する者としても、真剣に企業を選ぶ時代に突入したのではないだろうか。

2018/05/10


トップへ戻る