川北英隆のブログ

パプアニューギニア文化と存続

ヤウンバクでの2泊目の早朝、ドン、ドン、ドンという音が鳴り響いて目が覚めた。自家発電機の調子が悪いのかなと思っていたところ、村民(70歳とか)が亡くなったので、そのことを近隣に木の太鼓を使って知らせていたらしい。
通信手段として、音が依然として使われている。写真がその太鼓である。木をくり抜き、棒で叩く。全体の形はクロコダイルになっている。わかりにくいが、先端がワニの頭部として彫られている。
セピック川にも携帯電話用の中継塔が建てられている。同行者の一人は会社のスマホを持参していて、受け取ったメールの返信をしていた。とはいえ、携帯の普及率は低いはずだし、川沿いよりももっと奥地に入れば電波が届かないだろう。旅行中にあったことだが、中継塔の故障もある。
この太鼓の置かれた場所はハウスタンバラン(haus tambaran, 精霊の家)の跡とのことで、今でも男だけが入れる。神社の本殿のようなものだろうか。
奥に(風呂場にあるような)木の椅子が置かれ、そこで男達が寄り集まるらしい。とはいえ、ヤウンバクではこの場所と精霊との関係が今では薄くなっているらしい。外国人である我々でも(男だから)椅子に座り、話すことが許される。
第二次世界大戦時、セピック川は日本軍とオーストラリア軍が戦った場所でもある。ヤウンバクには日本軍が入ってきた。その日本軍のために、村が湖の対岸から現在の地まで移転したらしい。少し上流、クロコダイルフェスティバルを見たアンブンティ(Ambunti)にはオーストラリア軍がいたとのこと。
村民と互いに片言の英語で話していると、100年ほど前まで(戦前か戦中までか)、他部族との戦闘で狩った人の頭部をハウスタンバランに飾っていたらしい。西洋人が狩った獲物の頭部を飾るようなものだとイメージすれば、そんなに違和感もない。祖父の時代のことだとも話していた。
そんなパプアニューギニアも変革している。「祖父の時代は石器時代だったが、孫の世代になり、アメリカでPh.D.を得る者も出ている」と聞いた。ヤウンバクの次期村長(1955年生まれだとか)の弟はEU本部で外交官をしているとも聞いた。
どの村もそうだったが、片隅にelementary school(小学校の低学年か。というのもprimary schoolに通うには舟を使って1時間かかると話していたから)がある。子供に聞くと、elementary schoolで勉強しているとのことだった。先生の家が少しだけ立派だった村もある。(プロテスタント)教会も立派だった。2つがセットなのかもしれない。
葬儀の話に戻ると、近隣から10名少しが集まってくるという。ゲストハウスも弔問者の宿泊のために開放される。
我々は昼前に村を離れたので、葬儀の様子を見ることはできなかった。しかし、亡くなった家からは沢山の人達の泣き声が聞こえていた、近くで棺を作る作業も行われていた。
20180815通信手段の太鼓.JPG

2018/08/15


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