川北英隆のブログ

山と仕事の両立

家庭と仕事の両立が重要となっている。同時に、趣味と仕事の両立も重要である。とすれば、鼎立か。この鼎立の観点からすると、通産省に出向していた2年間はすばらしかった。
課長の宮田さんはつべこべと言わない。ささっと赤ペンを走らせ、部下の原稿の修正をする。黒ペンを走らせ、自分の原稿を書く。仕事が終わり、何もなければ6時頃にさっさと帰る。それがスタイルだった。
読書会が定期的に行われ、出版の準備をした。外部から著名な学者を呼び、我々の原稿の論旨をチェックさせた。その学者の中で一番有名になったのが野口悠紀雄さんだったと思う。僕の原稿案を手厳しく批判されたと記憶している。
2年間の在籍が残り半年くらいになったとき、『日本の未来像?10年後のシナリオ』の原稿を出版社、東洋経済に渡した。印刷物になったのは出向が切れる直前だったと思う。
当時の課(統計解析課)は3ヶ月に一度、経済の現況に関する報告書を出していた。その半月ばかりが大変で、僕を含めた担当者が必死で経済を分析し、原稿を書いた。といっても、僕は宮田さんを真似て、できるだけ早く帰るようにしていたが。
その仕事のピークがすぎると、宮田さんに呼ばれる。その声で課長席に行くと、「川北君、いついつから休めるかね」と聞かれる。「今度はどこですか」と質問すると、宮田さんの懸案の山の名前が出てくる。先日、昼食で一緒だった北原、原、その他のメンバーを募り、課長命令の休暇でよく山に入ったものだ。
そもそも、出向初日の歓迎会で、僕の趣味が山だと話したところ、課員がどっと笑った。飛んで火に入る夏の虫だったわけだ。誰かが後でこっそり、「宮田課長の趣味にはまってしまったよ」と教えてくれた。
冬は誘われなかった。宮田さんの関心は、もう1つの趣味、スキーに向かう。このスキーも、国体だったかに出場したことのある課員がいて、彼が中心にになって付き合っていた。
宮田さんは出世に関心のないタイプだった。省内の政治に関わっている雰囲気はなかった。とはいえ緻密だから、通産の上層部やOBが参加する山の会に時々出席すると、宮田さんを尊敬する雰囲気があった。
本省では調査統計部長をされ、その後は関係機関に出向された。最後の方で大学の教員になられたが、「もう辞めたいよ」と言われていた。実際にも定年までは務められなかったと記憶している。
こういう生き方があるのだとの手本である。経済の見方を教えてもらい、単独行が危険だった駆け出しの頃に山も教えてもらった。以上、忘れないうちに書いておく。

2018/11/15


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