川北英隆のブログ

インパールのレッドヒルを慰霊

インパールを知っている日本人は多い。第二次世界大戦で日本軍が攻めこんだ激戦地である。でも、それがインドにあると、どの程度知っているのか。僕も、いつ頃までだったか、ミャンマーだと思っていた。そんなインパールに慰霊碑がある。今回の旅行で訪問した。
訪れたのはインパール市内から20キロばかり南西に走った、レッドヒルと呼ばれている場所である。ロトパチン村にある。
名前から想像して、「丘陵地帯の一角かな」と思っていたのだが、まるっきり外れていた。田んぼの中の小さな丘である。日本でいうと、奈良盆地の耳成山のようなものか(分からんかな)。
インパール自身が、海抜700メートル台の大きな盆地(南北60キロ、東西40キロくらいか)にある。高原の町とは聞いていたが、正確には高地にある盆地の中の町だった。日本軍は海抜100メートルほどのミャンマー側から1500メートル(もしくは2000メートル)近い山岳地を越え、インパールの盆地に入ったのだとわかった。
ミャンマー側の拠点はイラワジ(エーヤワディー)川の一大支流、チンドウィン川である。非常に蒸し暑く、雨季には大量の水が流れるらしい。山越えはジャングルのようだ。一度越えてみたい地域である。
それはともかく、インパールはミャンマー側に比べて天国のような土地だったに違いない。それを奪うため激しい戦いがあった。火器の量で日本軍に勝機はない。飛行機もない。広い軍用道路がインドの中心部からコヒマを経由し、インパールに付けられていた。日本軍はジャングルをかき分け、ようやく兵隊だけがインパールに入れたに等しい。
そのインパールの激戦地の1つ、レッドヒルとは、土が赤いからではなく、戦争によって土が赤く染まったからだという。丘の下には日本軍の慰霊碑がある。小さな丘の上には英軍(多くはインド兵)の慰霊碑があるらしいのだが、今回は寄らなかった。
同行者がロウソク、線香、タバコ、日本酒、菊(ただし造花)を持参していたので、一緒に慰霊させてもらった。「何でこんな所で死ななければならなかったんやろ」とあほらしくなり、陰鬱になった。
父親もインパール作戦に駆り出されたのだが、インパールではなく、その北のコヒマを攻めた。戦後、一回だけ、当時は特別入域許可が必要だったコヒマに入った。その後でインパールにも入る予定だったのだが、コヒマで風邪を引き、インパールには(戦時中は足を踏み入れなかったこともあり)立ち寄っていない。それなのに、何で陰鬱になったのか、いまだによくわからない。
現地の住民が日本軍の慰霊碑を管理している。ガイドが村人を呼び、慰霊碑の門の鍵が開く方式である(他も同じ)。日本政府から何がしかの資金が出ているのかもしれないが、その村人にお礼として500ルピーを渡しておいた。値打ちは、先のドッグカレーのメニューから推察してほしい
写真は第三十三師団(聯隊)第三中隊の慰霊碑である。その横にロトパチン村の名の彫られた慰霊碑もあった。もはや訪れる人数も少ないのだろう、慰霊碑は半分壊れていた。
20181215インパール慰霊碑.JPG

2018/12/15


トップへ戻る