川北英隆のブログ

近代の城と水害

人と会うとまだ台風19号の話題が余韻として登場する。役人だった某氏が、新幹線の車両基地のほとんどは泥田かそれに近い場所だと語っていた。広い土地を確保するにはそれしかなかったのだろうと。それと同様、城下町も浸水の可能性がはっきりしている。
江戸時代の城は山城から平地の城へと変貌した。戦のための砦から政治のための城に変わったと言っていい。とはいえ、防衛の必要性が消滅したわけでない。新たな仕組みにより、政治体制と頭(殿様)が守られるようになった。それが堀である。
その堀、空堀でもいいのだろうが、防衛のためによりいいのは、水を貯めておく方式である。そんなことを書かなくても、城の堀といえば水の堀だろうが。
では、堀に水をたたえるにはどうするのか。普通、海の傍でないかぎり、実用的には川から引き込むしかないだろう。一方で、天守などの殿様の住居を高くし、威厳を示すには小高い丘が好ましい。
ということで、江戸城も大阪城も名古屋城も、丘陵の端に位置して造られた。水と威厳の両方から、最適な場所だったことになる。
大和郡山にある郡山城、江戸時代には柳沢の領地の中心に位置した城も、丘陵の端にある。どんな地形だったのか、子供の頃に住んでいた記憶に基づいて書いておきたい。
城は生駒山の方から東に伸びる丘陵の端にあり、さらにその東側、平地の部分に内堀がある。その内堀、天守を取り囲むように丘陵の西側を掘削して設けられている。このため、天守の東側の堀は浅く、西側が深い。天守への入口は、その堀の深い側、西に設けられている。
武士の上層階級は城の西側、つまり丘の上に住んでいたようだ。子供の頃、由緒正しいお寺があり、高級な住宅が建っていた。内堀の西側、外堀との間は一般の民家だった。紺屋町、大工町、材木町、豆腐町などの住所が残っている。卒業した小学校も同じ平地にあった。
これらの住居の水、そもそもは井戸水だったようだ。僕の実家にも井戸があった。もっとも、鉄分が含まれていて、独特の味がした。戦後だから、水は水道であり、井戸水は夏の子供の行水やスイカを冷やすのに使っていた。
小学校の校舎の横に15センチほどだったか、鉄のパイプが飛び出していた。先生が言うには、かつてはそこから水(地下水)が自噴していたらしい。
要するに、平地は扇状地の上にあり、地下には水分が豊富に蓄えられている。京都の中心部と同じで、掘れば水がすぐに得られる。それどころか、今はどうか知らないが、当時は地下の水位が高く、そのために家の床が腐りやすかった。
わが家はその地下の水分を抜くため、道路側に浅い穴を掘り、そこに水分が貯まるようにしてあった。50センチ四方、1メートルくらいの深さだったか。一日でその穴がほぼ満水になった。その水を掻い出しつつ、道に打ち水をしていた。
そんな城下町の外は、外堀を挟んで水田だった。大和川の本流の1つ、佐保川が流れ(もう1つの本流は初瀬川)、それが氾濫する土地だったのだろう。佐保川は天井川である。大雨が降れば氾濫の危険があった。
そんな土地には、街道沿いと、所々にある集落(農村)以外、本来、人は住んでいなかった。国鉄の郡山駅も、大日本紡績(ニチボーを経て現在のユニチカ)の工場も、外堀の外にあった。
その田んぼの中の集落で有名なのが稗田である。古事記を編纂した稗田阿礼の集落であり、その集落を環濠が囲んでいることでも有名である。その環濠でもわかるように、周りは水分がいっぱい、人が住むのに適していなかったことになる。
もう少し視点を広げると、奈良盆地の主要な町は、盆地を囲む山との境に発達した。盆地の真ん中に町がないわけではないが、大きくない。
奈良盆地、元々は水が貯まっていて、琵琶湖のような雰囲気だったのか。その水が盆地の西側、王寺から山を開析し、大阪側に抜けている。奈良盆地の地形は、池の水を抜いた時のように、大小の河川が水の抜け口、王寺に集中している。今でも王寺付近は浸水が多い。奈良盆地の形成を象徴しているようだ。

2019/10/31


トップへ戻る