川北英隆のブログ

京都盆地と水

前回、郡山城から始まり、奈良盆地の地形と水に話題が拡散してしまった。夜、ビールを飲みながら思いつくままに書いていると、どうしてもイメージがいろいろと浮かび、拡散する。そのついでに(今はビールを飲んでいないが)、京都についてメモしておきたい。
京都の中心部は2つの川で仕切られている。1つが東の鴨川、もう1つが西の桂川である。中心部が位置するのは、この2つに挟まれた扇状地である。鴨川はまあまあの大きさ、桂川は日本の川としては大きい部類。この点が、平安京の規模の大きさにつながると思う。
平城京のあった奈良はというと、鴨川よりも小さな佐保川が北側に流れている。正確には佐保川の支流、能登川も奈良の南に流れているのだが、こちらは沢であり、平地に入ると小川プラスアルファ程度の大きさでしかない。奈良の旧市内はその扇状地というよりも、春日山の続きに位置している。水は山からのごく小さな流れである。
平城京の中心部は今の奈良の旧市内ではなく、奈良盆地の北の端に位置しているのだが、三条よりも条数が増えると、今の水田地帯になってしまう。一部は蓮(蓮根)が栽培できるように湿地だった。中学、高校と郡山から奈良へ通学するとき、車窓から蓮が見えたのを覚えている。これでは昔、水害もあっただろう。都として長続きしなかったにちがいない。
京都に戻ると、桂川は大きな川だから、平地と京都盆地の西山の間を削るように流れている。鴨川はそんなに大きくなく、大雨が降ると氾濫しつつ流れ、そうでないと水がほとんどなくなる。そのほか、実は小さな沢が、北山から今の京都に流れてきている。
標高として、西山の際を流れる桂川付近が一番低く、そこから京都の中心部に向かって少しずつ高くなり、鴨川付近で少し低くなっている。その先は東山である。北から南へは川の流れに従い、少しずつ下っている。伏見付近で桂川に鴨川が合流し、伏見の南には宇治川(淀川本流)も流れている。南からは木津川も流れ込む。
京都の旧市内、かつての平安京は桂川と鴨川の間、南に少しずつ下った平地の上にあった。扇状地の上でもある。鴨川が荒れることはあったものの、中心部は安泰だった。それでいて、少し掘れば扇状地だから水が簡単に得られた。
観光地と化してしまった錦は、その湧き水を利用した店が立ち並んだ。今でも京都の旧市内では水の自噴が見られる。錦にある天満宮でも自噴していたと思う。
河原町は、鴨川の傍にある。かつて鴨川が荒れた時、水が流れたため、石ころがごろごろしていたと想像する。河原町という名前のとおりである。その河原町の西側が京極であるのも、普通の人の住む土地は、京極付近までだったと想像させる。調べると、かつて御土居(堤防の役割も果たす)が河原町と寺町の間にあったとか。
このためだろう、河原町付近から東が歓楽街になり、飲食店が多くなる。いかがわしい店もあり、客引きもいる(門川はん、ぼうーっとせんと、何とかしたってんか)。学生の頃、安い料金で飲み食いさせてくれたのも河原町付近だった。今でもそうだが。
このように京都は南に下っているから、神様は北から鴨川の清流に沿って下りて来られる。上賀茂神社、下賀茂神社がそれである。汚いものは市街地から南に流れ下る。今の五条から七条にかけて、土左衛門も流れ着いたらしい。
さらに下というか南の伏見は淀川を利用した水運の町として栄えた。鴨川の流れを利用した高瀬川(人工河川、運河)が伏見まで通じている。
伏見の南は、かつて大きな水溜りだった。宇治川と木津川の水が溢れ、時には桂川も氾濫したのだろう、巨椋池(池というには巨大な水場)になっていた。それが洪水の防止対策や干拓が続き、戦前に消滅してしまった。その名残として、今でも広大な田んぼが広がっている。
その宇治川、木津川、桂川は山崎で合流し、大阪と京都および奈良の県境の山というか丘を開析して大阪に流れている。奈良盆地と同様、京都盆地の南側は巨椋池を中心とする湿地になっていて、その先で大阪に向けて自然排水されていたのである。

2019/11/01


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