川北英隆のブログ

マニュアル主義の弊害

日本人は外人と比べて親切だとの評価がある。でも、日本人として長く生きてきた者からすれば、不親切になったとしか思えない。何故なのか。僕の認識が間違っているのかと思って友人に質問したところ、やはり同じ感覚だった。
思うに、日本人の本質は親切なままだろう。親切というか、他人を押しのけ、自分勝手な行為をすることが恥だとの文化がある。出しゃばらず、会議では他人の意見を聞きというスタイルも、同じことなのだろう。
では、どうして不親切になったと感じてしまうのか。自分の頭で何をすればいいのか、それを考える習性が失われつつあるのではないだろうか。
電車に乗るときは降りる者優先であるのに、ドアが空いた瞬間に飛び乗る者が目立つようになっている。そんなことをしようものなら乗降客が入り乱れ、大混乱するとのイメージが浮かばないのだろう。混雑した場所、大きな交差点でスマホを見ながら歩くのも、そんなことをしようものなら、はた迷惑になる、車にはねられる危険が生じるとの思いに至らないのだろう。
このように、日本人の多くが「考えなし」になった背景には、何事にもマニュアルを整備する風潮と、「そのマニュアルどおりに行動しましよう」との社会の雰囲気があるのではないか。マニュアル主義である。
もしもマニュアルがないのなら、本当は何が正しいのか、もしくは望ましいのかを考えて行動しなければならないのに、「マニュアルがないから、好きなように振る舞えばいい」との結論に短絡的に至るのだろう。
逆に、マニュアルとか指示とかに反発する傾向も出てくる。駅のホームでスマホを見ながら歩く者が絶えないのは、この傾向の象徴である。口やかましい親に反発するのと同じである。「何で押し付けられないといけないんや」との、これも短絡的な反応の結果である。マニュアルとか指示が出される、その本意を理解していないから、短絡的に反発するだけの「ノータリン=脳足りん」が大量発生する。
もちろん、マニュアルが、いつでもどこでも正しいわけでない。考えた上で、マニュアルに従わないこともあっていい。僕自身、海外の駅などでスマホを見ることもある。ただし、通路の端に立ち止まり、スマホをひったくるような変な奴がいないか確かめつつ。
マニュアルを作る方も作る方である。一から十までマニュアルにしようとして、その本質がどこにあるのかを教えない。
いつものようにJR東海の馬鹿げた行動を指摘しておきたい。京都駅に列車が入構すると、それをセンサーが感知し、「飛び乗らないように」、「ホームと列車の間には隙間があるので気をつけるように」、「子供の手を引いて乗るように」と、列車が出発してそれをセンサーが感知するまでの間、ずっと、少し早口気味に、連続的に、がなり立てている。何でそこまでして乗客に注意を促さないといけないのか理解不能である。事故が起きたとき、「ワテらの責任やないしね」と主張するためだろうか。
日本には自己責任原則が乏しい。横断歩道以外を歩いて車にはねられたら、本来、それは歩行者の責任である。しかし、日本でははねた車の運転者にも罪があるとされる。スマホを見つつ横断歩道を歩いて車にはねられたら、その責任の一部は歩行者にもあるのだが、日本では全面的に運転者の責任だろう。列車に飛び乗って事故が起きれば、そのほとんどは飛び乗った者の責任なのだが、日本では列車か駅員の責任のように扱われる。
時々、ズボンの後ろポケットに大きな財布を入れ、歩いている若者を見かける。盗んでくださいというようなものである。誰もが善人だとの前提もまた、マニュアル主義の「考えなし」から派生する。困ったものである。
最初に戻ると、日本人が不親切になったとの印象もまた、マニュアル主義の「考えなし」から生じているのだろう。雨の日、狭い歩道ですれ違う時、傘をどうするのか。どうするのが一番いいのか考えてもらいたいものだ。
今日の日経の朝刊、文化面に山田洋次監督へのインタビュー記事が掲載されていた。そこに、今の人間関係について、「それを全部お上の命令みたいに、決まり事にしちゃう」とこぼしていた。少し別のニュアンスが込められているのだが、この人間関係に関するコメントもまた。マニュアル主義の問題点を突いているように思える。

2019/12/14


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