川北英隆のブログ

本当のESGから反省を

ESG(環境、社会、統治)、SDGs(国連:持続可能な開発のための2030アジェンダ)なる横文字が各所で踊っている。僕が思うのは(常に批判的に世の中を見ているからだが)、この騒ぎは上滑りではないのかと。他国は知らないが、日本がとくにそうではないのかと。
このブログでも書いたと記憶しているが、25年ほど前、林野庁のお偉方と森林と環境の議論をした時、里山がゴミ捨場になっていると指摘した。どういう文脈での指摘だったのかは忘れた。それに対して林野庁は「そんなことない」と強く反論した。お偉方、現場を歩いていないのだと直感し、それ以上言うと喧嘩になると思い、止めたが。
先日の宇治の山も里山である。だから捨てられたゴミが目立った。山道しかない箇所にゴミはない。ゴミのあるのは、車がほとんど通らない車道の脇である。犬が電柱でオシッコをする感覚か。
写真を1枚アップしておく。高い鉄梯子を登り、荒れた道を歩き、ようやく曽束大橋に着いたと、ほっとした瞬間だった。車道との接合点に大きなゴミがいくつか捨てられていた。土地勘のある者が車で運んで来て捨てたのだろう。
この写真は一例に過ぎない。喜撰山登山口の手前では捨てられた冷蔵庫を見た。花立ノ峰直下の車道の横には大量のビールの空き缶が捨てられていた。後者の道路はチェーンで通行制限されている林道だから、林業関係者が捨てた可能性が高い。
お偉い人達がこんな山奥に入ってくるとは思えない。せいぜい都市部で会議をし、重要な施設を視察する程度だろう。一度、足を伸ばして見てほしいものだ。ちょっと里山に入れば、どこでも見られる光景である。その上でESGやSDGsを議論してもらいたいものだ。
よくある議論を見聞きするにつけ思うのは、ESGだ、SDGsだと叫びながら、自分達の価値観を強引に他人に押し付けようとしているのではないかということ。ESGやSDGsの議論をする場合、そういう自省を常に持つべきである。
道路というインフラを作ることはいいことかもしれない。でも、それが都市部への人口の集中を加速させる。地域ごとに発展した独自かつ多様な文化が、画一的かつ平板なものに退化してしまう。ゴミの掃き溜め場を作ってしまう。
ネットが発達し、ドローンが発達した現在、多様な文化を活かしつつ、環境や社会のために良好なシステムを作れるのではないか。そう思えてならない。
二酸化炭素の排出問題やプラスチックゴミ問題はずっと以前からあった。それを放置してきた責任は誰にあるのか。先進国に決まっている。先進国がそれを放置してきたということは、先進国自身の統治システムが不備だらけだった証拠でもある。
二酸化炭素の排出に限定して言えば、ブラジル(アマゾン)の森林伐採を先進国は非難できない。ヨーロッパは広大な森をほぼ伐採し尽くし、発展したのだから。アメリカ、日本、中国も大なり小なり同じである。ブラジルに森林保護と生物の多様性保持とを願うのなら、そのために活動支援をするのが本筋である。
捕鯨の問題も同じである。鯨油のために大量の捕鯨を繰り返した欧米に対し、元来の日本は食用でしかなかった。動物愛護の観点からの非難もあるが、それなら牧畜はどうなのか、ゲームと称するまさに遊びの狩りはどうなのか。
いつまで書いても際限ないのでまとめておく。価値観の押し付けだけではどうしようもない。技術を使いこなすことで、最大の目標を達成しつつ、多様な価値観の並立を目指すべきである。
20200412曽束大橋のゴミ.jpg

2020/04/12


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