川北英隆のブログ

コロナ戦争と財政への心配

今年、年賀状の多くをネットで送った。手紙や葉書を出すことが少なくなったので、年賀葉書は本当の年寄りだけにしたわけだ。ネットの賀状は添付ファイルなのだが、メールの本体に一言いると思った。そこで「戦時下にあった昨年を教訓に・・」と書いた。
全文を示しておくと、「戦時下にあった昨年を教訓にし、逆手に取り、今年を(今年も)いい年にしたいものです」と。この「戦時下」が受けたようで、知人の何人かがコロナを戦争に喩え始めている。
家族がいつコロナに感染するかもしれない。重症化して病院に運ばれる瞬間が、永久の別れになるかもしれない。若者が戦地に駆り出された80年前の戦争そのものである。駆り出されず国内に残ったとしても、いつ空襲があるかも知れなかった。それと実質的に同じことが生じている。
今はコロナとの戦争である。形を変えた第三次世界大戦だと考えれば、個人も企業も政府も、自分達自身の行動の大原則が定まるはずである。敵兵(コロナ)に襲われる可能性の高い場所に遊び感覚で行くなんてありえない。敵兵の巣窟とならないようにマスクをするのは当然であり、電車の中で会話し、飲み、騒ぐなんて論外である。
そして、絶対に必要なのは戦争のための資金であり、結束というか同盟である。
まず同盟から考えておくと、日本にとって欧米諸国との協調は比較的容易だろう。トランプが去った後、難易度がもう一段下がった。とはいえ、最新鋭兵器を巡って争いが起きかねない。対コロナという意味では、ワクチンであり治療薬である。それをきっかけに同盟国間で醜い争いが起きれば、経済や社会の大混乱が起きても不思議ではない。戦争なのだから、ちょっとしたことがヒステリックな感情をかきたてる。
資金が必要なのは当然だろう。だから欧米各国の中央銀行は必死で金融緩和し、各国政府も必死で資金を投入している。このため、金利はゼロに近づき、政府の債務(国債発行残高など)が急速に膨らんでいる。
ゼロ金利は、結局は国民の負担である。ゼロ金利でなければ獲得できたはずの金利収入(預金利息、社債利子など)が得られなくなるから。また、戦争が収束すれば、政府財政を立て直すための増税が待ち受けているはずである。賢い政府ならば、だが。
では、日本政府はどうなのか。まず、コロナ戦争に突入する前からすでに財政的な危機にあった。金利もゼロだった。つまり、新たな戦争に投入する前に、資金という兵器の底が見えていた。しかし、コロナ戦争だから仕方ない。政府は資金を何とか工面し、戦争に投入している。世界全体が同じ状態だから、日本の現状に注意を払う者は多くない。
しかし、戦争が収束に向かえば違ってくる。各国政府は積み上がった債務を減らすための算段をするだろう。「債務を減らす」といっても、必ずしも実額を減らす必要はない。経済が急速に回復し、GDP(国内総生産)が伸び、そのGDPとの比較で債務残高の比率が小さくなればいい。
この点、日本はどうなのか。すでに巨額の債務が積み上がっている。(説明を省くが)楽観的に考えても、GDPの成長だけで債務(債務の率)を十分減らせるとの期待に乏しい。とすれば増税が必然だと考えていいのだが、本当にできるのだろうか。それらを今、議論しても仕方ない。
必要なのは、日本の実態がこのようなものだから、コロナ戦争に資金を投入するにしても、その投入先を厳選すべきだったことである。今後もそうである。
まずは医療である。戦争の最前線とも言うべき医療機関やその体制の増強、感染の十二分な検査(つまり敵の感知)であり、少し先のことを想定すれば兵器(ワクチン、治療薬)の開発である。その次に必要なのは困窮者支援である。教育も、将来のことを考えると当然だろう。第2次世界大戦中、多くの学童が地方に疎開した。
これ以外に必要なものとして何があるだろうか。何か忘れているだろう。しかし、いくら考えてもGoToキャンペーンなんて思い浮かんでこない。それを発想したのが誰かは知らないが、天才児だろう。天才的に的を外している。もちろん関係する業者が苦しいのは理解している。救済するにしても、手段はいろいろあるだろう。
GoToとは、まさに戦時に遊びを奨励するようなものだった。戦場へのピクニックであり、遠足だった。そんなことをするのなら、他にやるべきことは山ほどある。ましてや、財政的な余裕に乏しい日本にとって、無駄に体力を使ったに等しい。それも無視できない金額である。
反省することの少ない菅さん、今からでもいいからGoToを反省すれば、国内では拍手喝采ものだろう。

2021/02/03


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