川北英隆のブログ

里山の現在に思う

今日の日経新聞にナラ枯れのことが書いてあった。ブナ科の木、代表的にはミズナラが枯れる。シイやカシもナラ科である。電車に乗り、里山に注意していると、盛夏から初秋にかけて林の中に枯れた木を見つけられる。その多くをナラ枯れと思っていい。
ナラ枯れの直接的な原因は、「カシノナガキクイムシが潜入し、彼/彼女らと共生するナラ菌という菌がブナ科の木の中に増殖してナラの水の吸い上げ機能を低下させること」にある。だから暑さで水分の不足しがちな真夏に木が枯れる。
以上を、表題の「里山」と関係なさそうなのに書いたのは、ナラ枯れの根本的な要因が里山の手入れ不足だからである。日経新聞にもあるように、以前のナラ科の木は薪、炭、時には椎茸の原木などとして里山の住人に使われてきた。だが、今は椎茸の原木は例外として、その他にはありえない。だからいつまでも伐採されない。
このため、山に入るとミズナラの大木が目立つ。そして実のところ、カシノナガキクイムシはミズナラの大木が大好きらしい。カシは硬いし、クヌギは樹皮が分厚いしで、これらはミズナラよりカシノナガキクイムシにとって価値が低いのだろう。だから大木となったミズナラは、「寄らば大樹の陰」となる。
里山に人々が住まなくなった。関西の里山をこの半年くらい徹底的に歩いていると、その荒廃は目を覆うばかりである。多少の経済力のある関西がこうなのだから、もっと地方に行くとどうなっているのか、気が遠くなる。
例えば、ほったらかされ、草の生え放題の田畑が多い。その横に、灌漑用に整備された池があったりする。村落の近くは自活のために稲や野菜を育てているのだが、少し離れると耕作放棄される。結局は住民の減少と老齢化に要因がある。田畑がそうだから、里山は住民にとっての存在意義がもっと失せている。
ミズナラは一瞬、ヒトがいなくなったので「切られずに良かった」と思ったのだろうが、自然はそこまで甘くない。カシノナガキクイムシが「やったー、ええ家やんか」と住み着いたわけだ。
日本にとって里山の利用というかその機能の再生が重要ではないのか。ミズナラを伐採し、それをただ単に燃料にするのでは環境保全の上で効率的ではない。とすれば、適当な樹齢で伐採し、それをチップにしてアルコールを作るとか、セルロースを抽出するとかできないものか。その伐採作業のために林業経験者を雇い、さらには林業のベテランを生み出すことが重要になる。つまり「環境に貢献する」ことである。
もっといえば、その業務が本物となったなら、そこで働きたいという若者が増え、里山が観光資源になり、地方も賑わうだろう。地方が賑わえば。地方文化が復興しと、いろんなメリットが生じる。
そんな半分夢物語はともかく、まずは里山の復興である。今回のコロナ感染によって行政の対応不足というか、大局的な視点の不足が目立った。地方の復興に関しても、単に経済力の観点からではなく、環境をも含めた、より幅広い観点から対応し、政策を打ち出してもらえればと、ナラ枯れの問題からひらめいた次第である。

2021/03/08


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