川北英隆のブログ

日本の勉強は勉強でない

友人(某大学の教員)が語っていた。彼にはアメリカの著名大学での研究実績も、アメリカの著名企業での実務経験もある。その彼が、「大学入試のためのレベルの低い勉強に全力を使い、疲れ果て、それに自己満足する日本人なら、世界のレベルに付いていけない」と。
この発言は、今日の日経新聞の最裏面に掲載されている坂井修一氏のコラム「受験勉強は「1丁目」」に通じる。
勉強とは何のためにあるのか。クイズ番組に出るためではない。同じことだが、暗記した知識を披露し、感心してもらうためでもない。もちろん知識を得ることは勉強の1つである。とはいえ、もう1つ重要な勉強がある。得た知識から「有益なこと」を生み出す、つまり知識の活用の方法を知り、実践してみることである。知識とは、料理でいえば材料である。知識の活用の方法とは、料理のための包丁や鍋や燃料の使い方である。
少し横道に逸れるが、知識を使って生み出す「有益なこと」とは何なのか。個人的な差異が大きいだろう。芸術だと思う者、実用的な製品の製造だと思う者などである。しかし、大きな縛りがある。反社会的であってはならない。この点も議論すればきりがないのだが、ここではやらない。
さて、このように考えると、大学入試のための勉強とは料理のための基本となる材料と得て、燃料や包丁などの基本的な道具の基本的な使い方を知ることにすぎない。料理を豊かにする多様な材料の調達、さまざまな材料の加工の仕方、微妙な調味料の使い方などは大学や大学院で、もしくは社会に出てからの実務の中で学び、さらには自分で工夫する(考え、試行錯誤する)ことになる。このプロセスを経てはじめて、いろんな分野で本当のプロが生まれる。
つまり友人が語ったのは、日本人の勉強が素人の段階で終わり、それで満足してしまい、その多くがサラリーマンとなり、経営者と呼ばれてしまう現状への批判である。
明治維新、敗戦後の高度成長期においては、知識を学ぶだけでかなりのレベルにまで達することができた。欧米はかなりの程度まで知識を教えてくれた。日本としてすべきは「横文字を縦文字に直す」だけに近かった。だから語学に堪能な者が重宝され、海外の知識をより多く得ることに力が入った。自分で考えることはある意味で「時間の無駄」だった。考えてみれば、奈良時代、平安時代の日本と中国の関係に近いかもしれない。
しかし、日本の経済レベルが欧米並みになると風景が一変する。日本として必要なのは、知識を得ることではなく、その知識をベースに加工する能力、すなわち調理力の獲得になった。とはいえこの点は、大学での勉強をサボり、社会人になってからは上司の指示を、それも「売上を増やせ」だけに近い指示をいかに達成するのかだけに力を注ぐ日本社会では無理に近い。
大学での研究成果を上手く活かせれば多少の救いはあったのだろうが、大学と企業の距離がいつしか離れてしまい(たとえば大学紛争以降、企業に干渉されない大学が理想とみなされ)、また企業の収益力が落ちるとともに、日本の調理力が欧米に、そしていつしか中国にさえ劣後するようになった。
思うに、生涯学習というのも変な単語である。いつまで中学生や高校生でいるのかと思ってしまう。学習という言葉に、創意工夫が含まれているのならともかくも、普通の者にとっては、先生に一般的な知識を教えてもらう生徒しかイメージできないのではなかろうか。
ということで、知識の獲得、獲得した知識の活用の方法、それを活用する目的、以上を明確に意識し、区別して、勉強の本来のあり方を考えないといけない。そうでなければ、日本が世界のレベルに付いていけないのは確かである。

2021/04/25


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