川北英隆のブログ

個性はお嫌い?

食べ物の香りを含む味や食感に関して、今風に対する疑問がある。例えば魚である。臭いから嫌いという日本人が増えてきている。野菜も、たとえばトマト香は臭いと評価される。しかしこれらの感覚は食品の没個性を促してしまう。
鯖や鰯が好きな者にとり、あの青魚特有の匂いというか香りが素晴らしい。血合いの部分がこれまた格別である。もちろん鰯を煮る場合は生姜を(カミさんが)入れるのだが、生姜が鰯の煮汁を吸って絶妙な味になる。
鯖は醤油を付けて焼くのが最高だと評価している。魚と醤油、両者の香りが、それも焼けた香りがして素晴らしい。牛肉や豚肉を焼いた時の香りよりも、僕にとっての評価は一段と高い。
そんな魚を「魚臭い」と毛嫌いする一般的な風潮が理解できない。何にも臭いがある。魚に「魚臭い」と罵れば、魚は(サメが代表格かな)「お前はヒト臭い」と逆襲するに違いない。
最近のトマトを食べていつも思うのは、トマトの青臭い味わいがほとんどないことである。子供の頃のトマトは、1つかじるだけで嫌になるほどの刺激があった。大きく、つるっとした種もあった。いつの間にかそれらが消え、ドレッシングがないと旨味を感じないようになった。味を消して別の味を付けるという矛盾か。農業が食品会社の回し者になったと言うべきか。
他の野菜もそうである。先日、ほうれん草を食べたところ、サラダになりそうなさっぱり味というか、ほうれん草だと思うとさっぱりだった。ポパイも力を出せないのではないか。僕は、ほうれん草の口の中に残る違和感(シュウ酸の作用)があまり好きでないので、ほうれん草でないようなほうれん草は、「これならいくらでも食べられる」と歓迎なのだが。
これらの食べ物に生じている現象は没個性化だろう。万人に愛される食品に仕立てるための第一段階である。素材を没個性にしてしまえば、後は適当な香りを付けたドレッシングを振りかけ、万人が自分好みの味に仕立てればいい。
結果として魚はタンパク質、野菜は食物繊維のために存在を続ける。とすれば、タンパク質や食物繊維を別の材料から作り上げようという工業化が進む。これも今風である。
同じことかもしれないが、食べ物の洋風化も進んでいる。食品を油(オイル)で処理すれば、油の中に香りが吸収される。もしくは油と熱で香り成分が分解される。どうせ油で調理するのなら、素材そのものの個性を重視したところで意味に乏しい。
たとえば山菜である。天ぷらにして食べればいいと一般に言われているが、それよりもさっと湯がいただけか、お浸しにするかの方が美味いと思っている。山菜の個性が強調されるからである。天ぷらだと、どんな山菜でも、極端に言えば普通の野菜でも同じ味がする。
そういえば、甘みだけを強調する果物の評価も没個性の流れにある。最近、温州みかんを食べるといつも感じるのだが、酸味が少ないので子供の頃ほど美味くない。
何でもかんでも「トロ何ちゃら」と呼んで脂肪分が多いのを珍重する(その究極が霜降り牛)の流れも、やはり没個性である。赤味の牛肉のほうがたくさん食べられるのに。
甘いだけが、脂肪分の多いだけが、淡白なだけが食べ物ではない。個性を重視し、その個性に合わせた食べ方を考えたいものだと思う。
強調しておくが、僕は料理をしない。切羽詰まって料理するときには、ほとんど素材のままで食べてしまう。だから余計に食品の没個性を嘆くのかもしれない。

2021/11/07


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