川北英隆のブログ

家元追随に未来はない

日本文化の特徴として協調性の強さがあると思う。これは強さなのだが、逆に弱さでもある。個性が疎まれ、変化に弱い。形式美に陥る。
明治維新以降の経済的な成功や第二次世界大戦に負けて以降の経済復興において、協調性は日本の強さとなった。政府も企業も一丸となり欧米を追いかけた。もう少し俯瞰的に見ると、欧米という手本(家元)に協調しつつ、それを真似たのである。
もう少し正確に書くと、日本人の教育水準の高さと協調性が、手本のある場合に最大の力を発揮し、国としての飛躍が得られてきた。逆に手本がなくなった瞬間、糸の切れた凧となる。
日本ではいろんな家元や元祖が生まれ、尊ばれている。政府もまた数え切れない国家試験制度を作り出し、さらにそのバーを何段階か設け、家元然としている。宗教もまた家元であり、念仏さえ唱えれば極楽浄土が眼前に現れるとの形式至上主義に至った。他国の宗教にも似た点を感じるが、日本が一番形式的だろう。
この形式美は調和をもたらし、安心を生み出す。しかし進歩も斬新さもないから、飽きを与え、ひどい場合は押し付けとなる。ここから先は個人の趣味かもと思うが、花も茶も退屈すぎる。感動に乏しい。そんな時間があるのなら昼寝をするか、野山を散歩するほうが躍動感を得られる。
同じことは企業経営や株式投資にも言える。金融庁がコーポレートガバナンス・コード(CGC)とスチュワードシップ・コードを作成したことにより、その信奉者が増えた。国連がSDGs(持続可能な開発のための2030アジェンダ)を提示すれば、それを崇める。二酸化炭素排出量削減だとEUが叫べば、同様に声高に叫ぶ。
この日本経済の実態に接して不思議に思うことが2つある。
1つは、どうして日本の企業や投資家がコード作成の以前に動かなかったのか、国連はともかくEUに先んじて二酸化炭素排出量削減の重要性を訴えられなかったのかという不思議である。日本でコード類似物や環境に対する先駆者がいなかったのならともかくも、実際はいた。でも日本の先駆者は「変わり者」扱いされた。
日本として「追随」に美学を感じた可能性がある。というか、誰か権威者が(金融庁、国連、EUなどが)確たる方針を示さない段階において、率先して動くことに躊躇した。「協調してない」と罵られるのではないかと、リスクを感じたのだろう。
もう1つの不思議は、日本企業がCGCの100%順守を目指し、投資家もそれを期待することである。二酸化炭素排出量の削減に関しても同じである。横を見つつ、「わが社もやらないといけない」とばかりに慌てて宣言し、形式を整え、100点を目指すことである。家元から師範の免許をもらわないととの強迫観念だろうか。優等生の行動でもある。
優等生的な対応だけに、誰も感心しない。「いつもの通りね」「1つでもいいから、ピリッとしたものがないのやろか」と思われるにすぎない。
むしろ状況が変わると、たとえばウクライナ問題でEUがエネルギー政策を転換しようとすれば、優等生は右往左往し、「ここはどこ、どうすればいいの」的な混乱に陥る。要するに誰かがやったことを暗記し、真似るだけに徹しているから、抽象的な意味でのターゲットがない。哲学がないとも言える。かといってアドリブが上手かといえば、流れをつかんでいないから、そんな才覚もない。
とはいえ日本を見渡すと、独自性の上に成功を築いた企業がすぐに見つかる。そんな企業の経営者に会うと、個性が強いことに気がつく。他の成功した経営者との外観的な共通点が少ない。共通点があるとすれば、個性の強さであり、製品やサービスの独自性である。協調性を欠いているわけではないのだが、無理に協調しようとは思っていない。
経営学のテキストを読むのもいい。しかし重要なのは文面の裏に一貫しているはずの概念である。ハウツー本を読む意味はない。時間の無駄である。天才的な経営者の言葉(付け加えれば経済理論)を鵜呑みにするのはアホである。その言葉(理論)がどういう場面で(何を前提として)、何に対して発せられたのか真意を知るのなら、そこにだけ実がある。
多くの日本人に対する忠告は、「協調しないこと」「文字面を信じないこと」である。天邪鬼に考え、行動してこそ、日本人の生活環境の多くを占める協調性との間に適切な組み合わせが得られるのではなかろうか。天邪鬼の方がある意味で楽しいし。

2022/04/27


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