川北英隆のブログ

企業は真の人材多様化を図れ

友人と話していると(そんなに頻繁に話すんかいな)、日本は文系人材を妙に重視していて、理工系の人材を蔑視していると嘆いていた。その結果、数学をはじめ論理的能力のない、暗記と過去に囚われた人材が企業、政治、行政のトップを占め、それらを没落に導くのだと。
これは別の知人から聞いたことだが、日本の金融機関とアメリカとの差はシステム設計に長けた人材にあり、アメリカは社内に多数を抱えているのに対し、日本はほぼすべてを外部に依存していると。それを聞いて思い出したのは、日本生命に入社した当時の、これまた別の知人の感想である。「僕の同級生で数学のできなかったのが日本生命のシステム部門に配属されたと聞いたけど、そんなことでは会社の先が思いやられるで」と。
最初の友人に戻ると、アメリカの研究では「大学院進学者の知能調査で、最下位がビジネススクール、ブービーがロースクール」と言っていた。確かに、論理的能力の点からすれば正しいのかもしれない。
日本に戻ると、法学部系と経済学部系の卒業者が、それも修士を終えていない者が役所や大企業に入り、トップにまで上り詰めるケースが多い。日本は長らく中国から文化を学んできた。明治以降は欧米から文化と文明を取り入れた。そんな日本として、最近まで、横文字を縦に書き直せる人材が一番重要だった。
ある意味で「人間辞書」であり、記憶力である。中国や欧米などが経験し、文化や文明として確立してきた制度や製商品の記憶でもある。これに加え、社内の上層部や他社を説得できる言語能力と政治力である。この点では理工系は文系に劣後するだろう。
記憶力に戻ると、もしもある記憶が論理性を欠いた状態で形成されていたのなら、その記憶には将来に向かった発展性や合理性が皆無だということになる。そんな記憶に頼ると、過去にとらわれるだけで、進歩のための道筋を描けないか、描こうとしても迷走してしまう。これが今の日本の現状ではないのか。そう友人は語った。
例示すれば、古い法律に基づいて経済活動を規制することが挙げられる。デジタルの時代にもかかわらず、紙や印鑑に頼り続けている日本であり、それを自主的に改革しようとしない企業や役所である。
経済学部において公認会計士は本流ではない。これに対して法学部にとっての司法試験は本流である。だから法学部の学生の多くは(多分)一度は勉強をする。司法試験に受かれば、最難関の試験に受かったのだから、「僕は偉いのや」となりかねない。
そういう学生が社会に出ると、社会も「あいつは偉いなあ」となる。だから組織のトップに上がっていく。本人としても大半の場合、そんな試験を経験してこなかった理工系を小馬鹿にする。
比喩的に言えば、法学部を中心とする文系は中国の科挙の世界を形成している。理工系を出た者は、科挙の世界から見ると単なる職人でしかない。
話が大きく横道に入った。時代の進歩が加速し、紙の辞書が不要になり、記憶も機械とネットに依存できるようになった。当然、記憶力の重要性は大きく低下している。必要なのは論理的能力であり、その論理的展開を描く道具としての数学とプログラミングである。
企業は人材の多様性を要請され、金融庁は上場企業に対して女性や外人の活用を要請するようになった。でも女性や外人というのは上辺、外見だけのことである。本当に重要なのは能力の多様性である。
女性や外人が重要というのも、これらの人材が持っている能力が高い、日本の男性にない能力があるという意味でしかない。女性である、外人であるとの理由だけで経営層に入れることは、そこらにいるアル中のオッサンを男性であるという理由だけで経営層に入れるのと同じである。
能力の観点からするのなら、理工系人材の活用を図らなければならない。それを指摘しない金融庁の「人材の多様性の要請」には大きな抜けがあるとしか思えない。その抜けを、多くの企業の経営層が見抜けるはずもないだろうし。

2022/06/17


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