川北英隆のブログ

「学校の教員不足」どうする

義務教育である小学校、中学校の教員が不足しているそうだ。知人が高校の教員をしている(正確には「していた」)。その話を聞いていると、中高と同様、待遇は悲惨である。
要するに義務や責任が重く、それに対する権利や権限に乏しい。権利とは給与や休暇である。権限とは生徒を叱咤激励することと、その方法である。
激励は横に置く。叱咤について、僕が小学生の頃は先生が生徒を手で叩く(ただし軽く叩く)ことが時々あった。今は「口で叩くこと」もパワハラなのだろうか。
子供の頃、田舎の親戚の家で悪いことをしたら牛小屋に無理やり連れて行かれ、「ここに放り込んだろか」と言われた。大きな動物は子供にとって恐怖である。今でも牛を怖いと思うのは、その当時の何回かの記憶からかもしれない。
そういえば女人禁制で有名な奈良は大峰山の西の覗き岩では、肩にロープを掛けられ、岩から上半身を半分程度せり出され、「親孝行するか」と声をかけられる。黙っていると、さらにせり出される。「はい」と言わざるをえない。中学1年生での体験だった。一緒に大峰山に登った友達のT君なんか、色黒の顔から血の気が引き、質の悪い石炭みたいになっていた。これはパワハラなのか。
それはともかく、子供を教えるには権限が必要である。とくに悪ガキにはそうだろう。権限がないと悪ガキは「やれるもんならやってみいや」と調子に乗るだけである。今の先生は、とくに義務教育の場合は「かわいそうやな」を通り越して惨めだろう。親も、自分が教員になった状況をイメージして、どういう事態に直面するのかを想像しないといけない。そうすれば叱咤の必要性を認めざるをえないはずだ。
その上で待遇である。いずれにしても今の義務教育の教員は大変だと思う。子供相手は並大抵でない。しかも子供をどう育てるのかによって、その将来を大きく左右しかねないのだから。ということで、高い給与を支払うべきである。
思い出すに、昔の先生は今よりも相当裕福だった。大学の教員もそうなのだが、それが「大したことないね」になり、義務や責任からすると「金銭的に割に合わない職業」になりつつある。
義務教育担当の偉いさんは、昔の裕福な教員時代という前提を変えずに、今の教員がすべきことを描いているように思える。しかも、昔との比較において、すべきことのレベルを上げ、権限を縮小している。理想の世界を描くわけだ。
ここで教員の人数を増やせれば、少しは状況の改善になるのだろうが、それが今の定員でも満足に集まらない。どうするのか。
前にも書いたと思うが、デジタルとインターネットの技術を駆使することに尽きる。それを教員個人に、もしくは学校ごとやらせようとするから、「そんなことできへん、大変や」となる。ベースの部分を国として作り、提供すべきである。そのベースの上に、教員や学校が工夫した部分を乗せればいい。
つまるところ、今の小学校から高校までの教育の問題とは、かつての良き時代、良き側面のイメージ(あくまでもイメージ)を踏襲しよう、その上で質の高い(個々の生徒の実態に合わせた)教育をしよう、それも人海戦術でと企画するから、「教員はブラックや」となる。待遇、権限、方法(デジタルの積極的な活用)の再構築が必須である。

2023/01/17


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