川北英隆のブログ

権威やブランドとは何様か

へそ曲がりなのか、人間嫌いなのか、他人と同じことをするのが好きではない。山も、数人で歩けば楽しいと思うが、5人も6人もとなると面倒になる。
何かを共同にすることが苦手というか、全体のペースに合わせられないのかもしれない。
低山歩きを紹介していると、「そんなヤブの多い中を必死で歩いている自分の姿を、ふと我に返ってイメージしてみるのがええかも、嫌になるやんか」との感想をもらした知人がいた。それと同じかもしれない。
僕の場合、共同で何かをしていても、客観的に自分を見つめる意識が常にあって、「これでええんかいな」と問いかけてくる。その問いに対して「ちょっと違うかもね」と思っても、共同だと、「ちょっと違う」程度では「しゃあないか」と提案する気になれず、不満が溜まっていく。それが数人以下だと、「こうしたほうがええかも」と提案できる。
前置きが長くなった。こういう性格だから、ブランドなんて好きではない。スポーツや演劇なんかを生で見ようなんて思わない。ましてや権威を信じていない。
昨今の芸能界の大騒動も、「何のことでっか」と不思議である。と脇道に逸れるが、大騒動の「大」は「おお」と読み、近い意味の大波乱の「大」は「だい」と読む。この「大」の慣用的な読み方、権威のNHK的な読み方にもやはり納得していない。朝日新聞に「大」の考察があった。
それはともかく、この芸能界の大騒動、その諸悪の根源は周知の事実に近かったとか。情報通の友人の説である。マスコミが黙りを決め込んでいただけ、それも芸能界の大御所を怒らせたら大損なので表沙汰にしなかっただけだとか。それが、蟻の一穴が開いた瞬間、報じないと損とばかりの態度に変身し、電波や紙面の無駄遣いに徹している。「やっぱり権威にろくなことはないな」と、二重の意味で納得する。
ブランドもそうである。本当に価値があるのかどうか、自分で確かめないと、誰かに感想を聞かないと妄信になる。
たとえば、スイスのブランドの革靴はすぐに靴底がはがれた。イタリアのブランド靴は幅が狭すぎて日本人足の僕には合わなかった。かといって、イタリアのブランドのトレッキングシューズは快適そのもの、最近、5足目を使い始めた。
政府や法律も同じである。たとえ最初が良かったとしても、そのうち崩れてくる。崩れを直せばいいのだが、保身に走るのが世の常に近い。権威に成り上がり、信じろとだけ宣うのか。そんな権威には10円の賽銭でさえ投じる気にはならない。神社では、最近は100円が相場かなと思っているが。

2023/10/09


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