昨日、材木町の家のことを書き、またブログの読者Tさんからコメントを送ってもらったこともあり、いろいろと思い出した。郡山という城下町の立地である。
材木町はその名が表すとおり、商売の地だったようだ。思い出すままに書くと、近くに茶町、雑穀町、豆腐町、魚町、塩町、車町、綿町、鍛冶町、紺屋町などがあった。その中で紺屋町には他の城下町にない特色がある。今でもそうだが、通りの真ん中に川が流れている。
川といっても幅1メートルくらいか。子供の頃はドブ川に近かった。多分だが、郡山城の内堀から水が流れてきたのだろう。当時確認できたのは、中堀の内側に建っていた市役所の前の池から紺屋町へと流れが通じ、その先は外堀へと導かれていた。材木町の突き当たりにある神社(薬園八幡宮)の前の流れは、その紺屋町の続きだった。
紺屋町の独特の風景は「知る人ぞ知る」存在、ブログの読者Tさんも(多分、山口県から)見に来たことがあるとか。
小学校低学年の頃、その紺屋町に友達のO君の家があった。父親の戦友だったと聞いている。僕は小学校に上がった直後に(確か入学式の翌日か、そのくらいの時に)麻疹になり、学校を休んだ。O君に授業を教えてもらった。しばらくの間、O君を誘って学校に行った記憶もある。
O君の家は当時、郡山で1軒だけ残っていた紺屋だった。遊びに行くと、染め物が針(名前を調べると伸子)で張って干されていたこともある。O君の父親が言うには、かつては前の川で染め物を洗っていたとか。「こんなドブ川で」と不思議だった。
それはともかく、郡山は西が矢田丘陵の端に当たる。そこに城が建てられた。北から秋篠川と佐保川が流れ下り、その2つが郡山の北東部で合流する。そもそも奈良盆地は大きな溜池のようなもので、盆地の中心部は、湿地との表現が大げさだとしても、水気が多い。
城から見ると、東に水気が多く、また北よりも南がより水気が多い。材木町などの商家は城の東側だから、水分の多い土地である。紺屋町を流れる川が代表的だとして、それ以外にもいくつもの小さな流れがある。材木町の裏にも溝よりも少し大きな流れが見られる。
そんな土地に建つ家にも水分が多い。材木町の家を買った時、父親が言うには「床が半分腐っていた」と。だから家の下の水分を抜くため、通りに面した箇所に穴を掘り、小さな井戸にした。そこに家の下の水分が染み出していた。その小さな井戸に溜まった水を、すぐ横の溝にかい出すのが母親や子どもの役目だった。
昨日アップした材木町の家の写真には、家の前にちょっとした凹みが写っている。それが小さな井戸である。その凹みの前に溝がある。今は蓋をしてあるが、子供の頃は流れが見えた。
郡山の外堀は、奈良盆地の水分で形成されていたように思う。大した石垣もなかったから、湿地を活用したのだろう。子供の頃は泥が溜まり、完全な沼地だった。「管理が悪いから」と思っていたが、そもそも沼地だったのかもしれない。その外堀の外側、つまり東側は佐保川の流れである。
話題にした紺屋町の写真をアップしておきたい。
2025/05/08