川北英隆のブログ

大阪に思う

かつての大阪は華やかに見えた。子供の頃、たまに父親に連れられて奈良から大阪に行くと、珍しいものだらけ、美味しいものだらけで、その思い出が今も残っている。郡山からは関西本線で天王寺もしくは湊町経由で心斎橋に出ることが多かった。
今の大阪には当時の華やかさ、珍しさがなく、がさつな町とのイメージの方が強い。とくにIRが誘致されたことから、かつての商都から賭博の町、博都とでも称すべき町になってしまうと思えて仕方ない。
今回歩いた大阪の「山」で思うのは、大阪の環状線の駅の周辺が「想像以上」だったことである。どういうことか。
大阪に3年間勤務した。東京から関西に戻って20年少し経ち、今も大阪に行くことが時々ある。そんな大阪の体験は、梅田、淀屋橋、難波、天王寺の地下鉄御堂筋線の沿線か、せいぜい中之島、北浜、京橋程度でしかない。もちろん他所に行ったことはあるのだが、点でしかなかった。今回のように、「山」に向かってかなり歩くことはないし、川を渡し船で横断することは当然ない。
大阪は、中心部から離れると敗戦直後を彷彿とさせる風景が残っているようだ。父親に連れられ、梅田だったと思うが、当時からあった横断歩道の上を歩くと、戦傷者が何人もいて金銭をねだっていた。ビルマ(ミャンマー)から帰還して10年程度しか経っていない父親は、「国から戦傷者にお金が出るのに」と呟いていた。
その当時とあまり変わらない家並みが、とくに大正区と、川を渡った西成区には残っている。もちろん敗戦直後の実際の風景を見たことがないし、その現実はもっと想像を絶するものだったのだろうが、とはいえ直感的には今も当時と隣合わせにあるようだった。多分、東京はもちろん、他の地域で敗戦直後に近い風景が残っていたとしても「ほんの一部の特殊な姿」なのに、大阪では全体として当時の入口に立った雰囲気がある。
大阪人によくある外見を飾らない性格が影響しているかもしれないものの、それだけでは多くを説明できないだろう。結局は大阪経済の没落なのか。とはいえ、大阪には美味い料理が残っているようだ。今やその「美味い」を、「コストパフォーマンスの良い」と言い換えるのが正しいのかもしれないが。
ここまで書いて思い出した。この10年近く行っていないタイのバンコクも食の都であり、値段が安くて美味かった。いくら美味くても値段が高ければ流行らない。同じアジア系の食の文化が大阪まで広がっているのだろうか。この点、大阪は東京とは異なった文化圏を形成してきたと考えられる。大阪勤務の3年間を思い出すと、当時の大阪は本当に食文化の都だった。コスパだけでなく、絶対的にも美味かった。
そんな大阪で今回は何も食べなかった。鶴橋のキムチも買わなかった。敗戦直後を彷彿させる風景は外見の話である。次は食べてみて、今の大阪の本当の姿を知りたいと思う。

2025/10/23


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