
奈良盆地の南部の丘を歩いて思ったのは、京都と違い、政治から見捨てられたに近い地域だったが故に、知らない歴史遺産が多いことである。母親の実家の村落の近くにも古い時代の寺院跡があり、耕すと建物の名残がいろいろと出てきたらしい。
不思議なのは、どういう理由で奈良盆地が古代政権の中心になったのかである。歴史学者ではないので何も知らないが、1つは、奈良盆地の底部が水を抜き取った大きな池の跡のような泥地であり、、水利技術を少し用いれば安定的にコメの生産ができることにあったと考えられる。今はどうか知らないが、子供の頃、盆地には泥田が残っていた。
一方、盆地の周辺(山手)に住めば乾燥しているうえに、洪水の被害にも遭いにくい。山も近いので住居用の木材が簡単に手に入る。つまり、食はもちろん、住環境的にも優れていた。もちろん奈良全体は気候が悪くなく、台風の被害も少ない。
他の地域と比べればどうなのか。つぶさにイメージしたわけでないので間違っているかもしれないが、人口が少ない古代なら、奈良盆地は箱庭的に十分なコメを提供してくれる。これに比べて大阪平野は大きすぎるし、川が氾濫する可能性が高い。京都盆地も今の京都の中心部は奈良地ほど水が豊富ではないし、伏見の付近では当時の感覚では大河(宇治、木津)の流域のため、水害が心配だ。
しかも当時の日本にとって脅威だった大陸からの侵略に対して(白村江の戦いでの敗北など、朝鮮半島とその背後にいた中国との紛争は現実の脅威だった)、奈良の地は福岡近辺と比べてきわめて安全だった。もっとも朝鮮半島から極端に遠いと、大陸の最先端の技術が伝わりにくい。この意味で、奈良は絶妙な距離にある。しかも大阪湾から山1つ隔たっている「城塞」でもあった。
こんな好条件の揃った地が奈良盆地だった。だから古代文化が花開き、古墳が山のように作られたのだろう。もちろん、九州北部、中国地方、滋賀にも多くの古墳があるのだが、今回歩いた巨勢のような圧倒的な数に出会ったことがない。
とはいえ、政権が安定し、発展するとともに、奈良は手狭になった。しかも元が「池」であるがため、有害物質も田畑に沈殿する。だから京都への移転が必要になったのだろう。
締めくくりとして、古墳の写真をアップしておく。上は室の村落にある宮山古墳の長持形石棺である。下は市尾の宮塚古墳の内部であり、家形石棺である。お墓の内部を覗き見るなんて行儀というか趣味が悪いのだが、一般の考古学者はそれにワクワクしているような。


2026/02/04