川北英隆のブログ

似非聖徳太子

最近、街で気になるのが携帯メールを読む通行人である。胸の辺りに少し長いものを持った姿は、かつての一万円札の聖徳太子に似ている。しかし、傍には何のご利益もない。それどころか、その傍若無人さは100パーセント迷惑だ。
一方で、駅やエレベーターなどでおせっかいな放送や掲示が多い。そのうち、「水を飲むときには気管に入れないように」、「風呂に入るときには溺れないように」と注意しなければならないのだろうか。前者は蒟蒻畑にまで及んできた。
身近な世界でいえば、大学をはじめとする教員もおせっかいである。学生が留年することにも、大学や教員に責任を感じさせる風潮がある。過去には、大学の無責任な(そう思える)状況に対して、学生のうちの何人か反抗し、徹底的に勉強をした。もしくは、独自の境地を見出した。今は180度振れてしまい、大学の誰も彼もが極端におせっかいである。おせっかい的に行動しないと、すぐにお上から教育的な指示が飛び、その理由を問い詰められる。これらは確かに、平均的な学生を育てるために必要なシステムかもしれない。しかし、このような「おせっかいシステム」を採用しているかぎり、世界に通用する優秀な若者は育たない。
似非聖徳太子の傍若無人さは、この「おせっかいシステム」と表裏一体だろう。「おせっかいシステム」は思考停止を生み出す。だから、似非聖徳太子が迷惑であり、同時にリスクを伴うことを本人が理解できない。
歩道や地下鉄の構内を歩きながら、携帯を眺めている似非聖徳太子は、向かいから来た人がぶつからないように避けて通ってくれることを、無意識のうちに期待している。しかし本来、そんな携帯を見ながら歩く似非聖徳太子が犬糞を踏みつけ、さらに線路に落ちたとしても、自業自得、自己責任でしかない。その筋の人にぶつかって脅されたらどうするのだろう。その筋の人にとって、似非聖徳太子は似非ではなく本物に見えるはずだ。

2009/07/31


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