川北英隆のブログ

覚せい剤と教育

28歳の京都大学経済学部4年生某が覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕されたので、学内は大騒ぎである。半分所属している学部の学生なので他人事のような感想を述べるのは許されないのだが、正直なところ28歳にもなって「迷惑」な学生だと思うし、この事件で頭を下げていた研究科長は気の毒である。
簡潔に述べれば、覚せい剤の罪を重くすべきだと思う。社会的に、広範な迷惑というか被害を及ぼす行為だから、ある意味で殺人よりも罪が重い。友人とのメールに、「覚せい剤を密輸してゼニ儲けを企てるやつは死刑、それを売りさばく手下は無期懲役、所持してたら10年の牢屋行き、そのくらいのことをせんとねえ」と書いておいたが、このような厳罰でも社会的に認められるのではないか。中国やシンガポールではこのくらいのことを実施しているはずだ(また聞き程度で、調べていないが)。
もう一点、日本の教育も甘すぎると思う。大学の場合、毎年の進級要件を課すくらいのことを行い、進級要件を2年続けて満たさなければ退学処分にしていいのではないだろうか。そうすると覚せい剤に手を出そうなんて考える余裕はないはずだ。もっと日本の知的レベルも上がるだろう。
そうそう、思い出したが、学生にとっての大学での教育とは、「教えられる」、「指導される」だけではないはずだ。しかし、学生以外の多くの関係者は、「教える」、「指導する」ことが求められると思っている。この認識のズレも多方面での勘違いの原因になっている。大学生にもなれば、教員は単なる道路標識のようなものでしかない。教えられたことが必ずしも真実ではないし(過去の常識や定理が、将来の常識や定理ではない)、その教えを忠実の実行したところであまり役に立たないことが多いのだから。
大学に対して何が求められるのかといえば、自分で考え、自分の責任で実行することが社会(研究者としての生活を含む)で求められるという、この永遠の真理を学生に教えることにあると、私は思っている。私が学生の頃、多くの同級生もそのように感じていたはずだ。
言い換えれば、教員は学生に対して、彼らが社会に出た場合の処し方のヒントを示すに過ぎない。だから、いくらカリキュラムを充実したところで、足りないものは足りないままである。学生側の自覚と努力なしに、何も実現しない。この事実を認識せずして大学での教育体制をいくらいじってみても、何の意味もないだろう。だから、学生の自覚を促す一つの手段として、進級要件の強化があると思っている。
以上のような抜本的な対策を講じずに、何か事件が起こるたびに小手先で対応しようとすると、かえって学生を甘やかすだけの結果に終わる。

2009/10/28


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