川北英隆のブログ

郡山小学校の吉岡先生

先日、元の会社の同僚H氏(といっても、5年後の入社)と話す機会があった。名前は知っていたし、会社で1回話したと思う。しかし、業務が全く異なっていたので、親しく話したことはなかった。
中学、高校時代の友人に、「僕の親戚のHが川北と同じ会社に入社した」と聞かされ。その後、たまたまだったが、そのH氏と会う機会があり、最初に述べたように話しをした。ほんの一言二言だったので、話の内容が要領を得なかった。
今回は十分に時間があった。話していると、出身の小学校(郡山小学校)も同じで、担任の先生も一緒だったとのこと。
今日、実家に帰った。京都で松茸を買い、実家に持っていった。「教員は貧乏やろ」ということだろうか、その数倍の現金を「ビール代」と称してもらったが(4倍返しか)。それはともかく、元同僚との話しが新鮮だったので、卒業記念写真を実家から持って帰り、小学校の先生の名前を確認した。その先生から、5年生と6年生の時に「これを勉強するように」と参考書を何冊かもらった。中学校から進学校に進んだのは、その指導による。
苗字は吉岡と覚えていたが、下の名前が富久とは知らなかった。天理市岩室の出身である。一昨年だったか、親衛隊のように振る舞っていた同級生の女子(まさに僕にとって女子であり女性ではない)と高校の同窓会で会ったので、「吉岡先生はどうしてるか知ってる」と質問したが、「知らない」とのこと。「冷たいやんか」と思ったが、すぐに「冷たいのは同じか」と思い直した。
よくわからないが、当時、40歳くらいだったか。今、存命だと90歳くらいになろう。当時の卒業アルバムはおおらかで、住所もきちんと書いてある。その住所に訪ねていけば消息は判明するだろう。というのも、名家だったはずだから。
「でも・・」というのが心境である。誰かから教えてもらうのがありがたいような。

2013/10/13


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