川北英隆のブログ

大学教育はたかが1つの手段

高校や大学の高等教育を無料にとの政治家の動きを読む度に、大学がそんな憧れの教育機関なのかと思ってしまう。子供が大人になり、社会人として活躍するために教育が大切なのは事実である。しかし、教育を受けるための手段は大学に限定されない。
教育にとって、大学の卒業は必要条件でもなければ、十分条件でもない。
教育を受けるためのルートというか手段は大学以外にいろいろある。芸術、技能、農林業や事業に身を投じ、実地で教えてもらうのも立派な教育のための手段である。だから、大学に進むことが教育にとっての必要条件ではない。
一方、大学に進み、卒業しただけでは、教育を受けたことにならない。日本の大学は勉強しなくても、バイトで明け暮れても、要領さえ良ければ卒業できる。たとえ授業に出席して知識を詰め込んだとしても、その知識が役立つとはかぎらない。
よくあることだが、教員の知識と社会的経験と、それに基づく講義が偏っているかもしれない。しかも知識だけなら、AIの時代には機械に太刀打ちできなくなる。以上から、大学卒業が教育にとっての十分条件ではない。
戦前から戦後しばらくの時期のように、大学に進学する者の割合が小さければ、大学卒業者には、多分、意欲と知的能力のある者の割合が高かっただろうから、十分条件をある程度満たしていたのかもしれない。裏を返せば、それでも教育を受けたことにならない者が多少いたことになるのだが。
教育の機会を国民に広く与えるのは政策として成立している。では、教育の機会を与えるとは何なのか。このことをよく考えないといけない。中学や高校の卒業者に対する学校教育だけが教育でないことを、誰が、どれだけ理解しているのか。社会人になって、大学でもっと勉強すれば良かった、違う道に進むべきだった、そういう思いが生じて当然だろう。
今の日本の社会には、そういうやり直しのルートが閉ざされている。やり直しに対して、落ちこぼれとの烙印が押されてしまう。戦後の高度成長と、それによる終身雇用の幻想がもたらした大いなる弊害である。
説明しておくと、終身雇用が幻想で終わった企業が多い。たとえ終身雇用を達成したとしても、人材を飼い殺してしまった企業も多い。外部から必要な人材を受け入れられず、発展を阻まれた企業もあるのではないか。終身雇用が日本の大企業の活力を削ぎ、発展力を殺してしまったと思えてくる。
スポーツでも、製品の開発でも、どんな場面を想定しても、やり直しは常態である。やり直しが狭き門なのは、日本の大企業への就職だけではないだろうか。大企業に、例外として中途で採用された者は「外人」である。
やり直しが認められれば、のびのびと(幅広い意味での)教育を受けることができ、自由な発想を楽しめ、冒険ができる。このような環境の中から異才が生まれて、ベンチャー企業ももっと多く生まれる。
高等教育の議論に、日本の企業風土に関する議論を是非とも加えなければならない。

2018/01/06


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