川北英隆のブログ

判子無視の若い感性を応援する

5/3に貶した日経朝刊1面左の特集コラム、実は5/5のものが良かった。脚本家である北川悦吏子氏の「ひとり発が咲く時代へ」である。経団連会長のものとは対極にあるような。
その題が象徴するように、「自分のアイデアを具現化しよう」との流れを語っている。「判子が必要なのが組織」だと位置づけ、「判子をもらっているうちに半年過ぎる」、「自分でやっちゃおう」との方向への世の中の変化である。
組織を否定するものではない。潜在的に、組織には力がある。でも、今の日本に形成された組織は窮屈すぎるし、形式が組織の秩序になってしまうという本末転倒の状態に陥っている。実質の追求が形式を作ったはずなのに、やがて形式が実質の追求を縛ってしまった。
日本人の感覚として、西洋の宗教上の戒律の多くが理解できず、「変なの」と思ってしまう。それと同じことが日本の社会で起きていないのだろうか。
その社会的戒律の象徴が北川氏の指摘する判子社会である。めくら判(差別用語かな)とは言わないまでも、本筋を理解していない関係者や上司の印鑑がやたらと押してある。その1つでも欠けると、いくら計画が優れていようとも実行に移せない。その判子社会、海外から眺めると、やはり「変なの」ではないのか。
そんな訳のわからない秩序維持のために時間を費やすのなら、自分の判断と責任で実行するのが正しい。この発想こそベンチャー企業のものである。この発想と、それに基づく行動を助けることが、日本経済の再生のために(1990年代以降に生じた世界の潮流からの大きな遅れを取り戻す)最重要な処方箋だろう。
大袈裟に表現すれば、僕が研究している京都企業も、その出自はベンチャー的な発想と行動にあった。彼らのアイデアの結晶である製品は、当時の東京の大企業に半分無視されたものの、アメリカに乗り出し、見出され、花開いた。東京を嫌い、既存の秩序を嫌い、独自の発展を遂げたのが、今の多くの京都企業である。
現在、日本国内にある成功と発展の可能性は、たかがしれている。人口の減少にともない需要が減少し、生産力(労働力)が不足するのが日本社会である。技術力が人口減少をカバーするかも知れないが、その技術力は日本だけに許されるものでない。
そんな日本をとりあえず無視し、若くて新しい感性が世界に乗り出そうとしている。その動きを大切にし、応援したいものだ。

2019/05/06


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