川北英隆のブログ

お金を拾い投資に

歩いていてお金を拾う話である。しょうもないことながら、株式投資の極意に通じるのが不思議である。こじつけかな。
子供の頃に住んでいたのは大和郡山市、柳沢15万石の城下町である。奈良盆地の物品も集まっていた。そんな町中を小学校に通っていると、お金をたまに(洒落ですよ)拾った。子供だから目がいいし、背も低いからよく見えたのだと思う。そうかと思い出すのは、当時の道は舗装されていないから小銭を見つけにくく、目のいい子供にはチャンスが多かった。
しかも、である。時々穴の空いたお金があった。それも丸い穴ではなく四角だから、一文銭である。当時は1950年代、明治の始まったのが1868年だから、まだ90年くらいしか経っていない。古い銅銭が落ちていたとしても不思議でないだろう。
株式投資で言うと(無理矢理もっていくんかいな)、箪笥や蔵を整理していると、親の遺産だろうか、古い株券が出てきたようなものだ。
山道を歩いていて500円玉を拾ったことがある。それも2回。1回は関東の山で、登山口に向かうため、誰も通らないような長い林道を歩いている時だった。もう1回は大文字山のメインのハイキングコースである。
「何でこんなとこで落としたのだろう」、「財布を取り出す必要もないし」と思った。でも、木の葉ではなかった。大文字山の500円は下山したとこにある日向神社の賽銭箱に入れた。実は時々小銭を賽銭にしているので、そのついでだった。
この山道の500円は、相場の格言「人の行く裏に道あり花の山」の例か。500円では花の山とは言えないかな。
京都に住居を移してから、その京都の町で1000円札を3回拾った。1回なんかは地下鉄四条烏丸駅の混雑する通路で。断っておくが、前を歩いている人が落としたわけでない。その札、歩く人が巻き起こす風によって揺れていた。
これこそ株式投資と大いに関係する。標準的な投資理論では、「公開されている情報をいくら調査、分析しても、他の投資家よりもうまく投資できない」とされる。すべての情報が調べ尽くされているからである。
だから小話がある。投資理論の講義の最中、学生が「先生、そこに1万札が落ってます」と報告しても、先生が「そんなことは理論的にありえない、幻だ」と断言したとか。
でも、現実には雑踏の中であっても札が落ちている。理論と現実は異なる。僕が発見したのは1000円札程度だが、1万円札だって、札束だって落ちているかもしれない。
ついでに思い出したが、今年の1月、エジプトの著名観光地、アブ・シンベル神殿で1ドル札を拾った。海外ではチップ用に1ドル札は必需品、とりあえずポケットに入れておいた。
こんなしょうもないブログを書こうと思ったのは、この1ヶ月、たて続けに10円玉や1円玉を道で見つけたからである。それも、それぞれ複数回である。
10円玉を見つけたうちの1回は、混雑する交差点が舞台だった(舞台かいな)。だから拾わなかったが。
1円玉のほうは人通りが少なかったのだが、さすがに「子供だったらともかく、この歳になってはしょうもない」と思い、見過ごした。でも、1時間程度経ってもう一度通った時も、同じところに落ちていた。かわいそうになって拾い、銀行のATMで1円貯金してみた(1円と印字してくれる、当たり前か)。端が少し傷んでいた(ささくれていた)ものの、ATMは受けつけてくれた。日本銀行行きだろう。
昨日も東京駅の雑踏の中で1円玉を見つけた。さすがに拾う余裕はなかった。拾おうすれば、誰かに蹴りとばされるか、手を踏まれるだろう。
この10円玉や1円玉の例、裁定取引(価格けてセテのわずかな歪みから利益を生む行動)かな。塵も積もれば山となるのだろうが、裁定の機会がそんなにあるわけでないから、大人には無用に近い。でも、終電が終わり、駅を掃除すると何枚も落ちているのだろうか。それなら少しは意味があるなと思う。
追記:以上を書いた6時間ほど後、京都寺町のアーケード街を歩いていると、またまた1円玉を見つけた。拾いはしなかった。でも、どうしてこうも頻繁に落ちているのか。海外旅行した時のことを考えるに、外人が釣り銭をポケットに入れ、取り出す時に落とすのか。何円玉か確認する時につい落としてしまうのか。どうせなら100円玉くらいを落としてほしいものだ。こっちは投資理論ではないが、すでに誰かに拾われているのかもしれない。

2019/10/18


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