川北英隆のブログ

春日大社を案内してもらう

同窓会の翌朝、希望者だけで行事があった。何か。春日大社を宮司さんに案内してもらった。さすが奈良だと思う。同級生の中に春日大社に顔の利くのがいて、早朝の、つまり観光客が来る前の案内を頼めた。
6.30だったか、春日さんの一之鳥居に集合した。12人だった。宮司さんの説明を受けつつ、本殿まで歩いた。その案内を、覚えているかぎり、思い出すかぎりだが、メモしておく。
かつての参道はJR奈良駅から始まっていたそうだ(そういえば駅には痕跡がある)。
鳥居のすぐ後ろに影向(ようごう)の松があり(今は切り株だけ)、その松が「春日若宮おん祭(八坂神社の祇園祭のようなもので、より格式が高い祭)」に奉納される能舞台の、その背景に描かれている。
一之鳥居から春日産の神殿までに8つの橋(橋といっても、その下を流れているのはせせらぎ程度)があり、一般には6つの橋しか渡れない。とはいえ、その6つの橋を渡れば十分に汚れが落ちるとされる。
最初の橋が馬出橋、その先に馬止橋がある。おん祭の時、この2つの橋の間で競馬がされ、その勝敗によって能(だったかな)の順番が決まるそうだ。「競馬発祥の地や」とか誰か言った。
途中に、おん祭の時に神様が24時間だったか、移られるという御旅所がある。その神様が一時的に宿る御旅所(その時だけ作られる)には二重の埒(竹の囲い)が設けられている。埒が明くとか明かないとかの語源であるとか。
途中、大きなムクロジュがある。その木の内部が空洞になっているのか、ムクロジュの幹の途中から竹が何本も生えた姿になっている。
飛火野(木の少ない草原)が右手に広がっている。かつての飛火野は春日大社の神鹿を閉じ込め、周囲の農地の作物を食い荒らさないための設備だったとか。要は動物園である。そのために木々を伐採し、草地にしたらしい。今も鹿苑が設けられている。その役割は、農地に危害を加えた鹿のいわば牢屋であり、また、病気をしたり出産を控えた鹿の病院とのこと。
一之鳥居の次に二之鳥居がある。その手前に車舎(要は牛車などの駐車場)がある。二之鳥居から先は何人といえども、歩いて参拝しないといけない。そのすぐ先、手水と藤原家専用の参拝道(剣先道)がある。剣先道、名前のとおり、入口の敷石がこちらに向かって尖って敷かれている。
その先、禰宜道が3本合流している。手前から下禰宜道、中禰宜道、上禰宜道と呼ばれる。かつて300人という神職(禰宜)が、近くの宿舎から通勤するための道だった。
この付近から石灯籠が多くなる。灯籠には夜(昼間はありえへんな)、油が燃やされ、灯りとなった。萌えた油から煤が出る。その煤が墨の原料になった。この石灯籠、今は400万円で春日さんに献納できるらしい。でも(質問しなかったが)、灯籠の石代と加工代がさらに加わるはずだ。ついでに、釣り灯籠(金属製)は200万円(300万円だったかも)らしい。
石段を上がり切ると、本殿と若宮の分岐になる。右手が若宮、左手が本殿である。この付近、古い石灯籠が多い。
かつて若宮は本殿の中に祀られていたが、場所がなく、小さい社しか建てられなかった。そこで現在の場所に移ったとか。
左手、本殿に向かう。すぐ、歩道に石の出っ張りがある。本殿から歩いてその石にぶつかることで、夜、石段を下る地点だと確認できたとか。神聖な岩(磐座、いわくら)であれば囲いがしてあるそうで、実際、本殿のすぐ手前に囲いと磐座が鎮座していた。
本殿の境内に入ると、当然ながら朱色の建物が目につく。この本殿、明治に入って政府から命令が発せられ、それまでの建て替えが許されなくなったとのこと。なお、本殿の朱色と、その手前の朱色とは色の鮮やかさが異なる。本殿は水銀100%の塗料、その手前は10%だとか。
境内の左手に1000年杉があり、その根元からもう1本、枝のような物が出ている。この枝のような物、杉ではなくイブキとのこと。近くで見ると確かにそうだった。そのイブキ、建物の屋根を貫いて伸びている。その貫かれた建物は直会(なおらい、祭の後の飲食場)だったとか。
我々が本殿に入ったのは8時前だった。通常は9時から、お金を払うと本殿の中に入れる。早く入れてもらった代わり、1人1000円の初穂料をお供えした。
本殿では7番目の橋まで渡った。8番目の橋は天皇と神職しか入れないとか。雲の上の世界である。霧の出た山みたいなものか。
写真は本殿境内の杉とイブキである。説明したように、イブキが建物の屋根を貫いている。
20191020春日大社.jpg

2019/10/20


トップへ戻る