川北英隆のブログ

日本の電力「ああ無策、失策」

ニュースを見ていたら経済産業省の荻生田大臣が「今年の夏はできるかぎり節電協力を」と訴えたとか。「家庭でのエアコンは全員が1つの部屋に集まって使ってほしい」とも。この電力不足への対策については、「よう言うわ」と思う。
日常のテレビを見ていると「熱中症対策としてエアコンを」と注意喚起している。新型コロナに対しては「密を避けるように」とも。でも、経済産業省のお願いに従ってエアコンを入れないと熱中症になりかねない。密の状態でエアコンを使うとコロナが「しめた」と喜ぶ。「どうせいと言うのんや」と思う。
政府の対策というか対応は、「そのバカぎり」ではない「その場かぎり」、「場当たり的」なことが多い。少し振り返ってみると、矛盾している例がいくつも指摘できる。今年の夏の電力不足への対応も、またまた矛盾の積み重ねである。
場当たり的な対応を重ねてきたため、最後は国民への「お願い」になってしまう。新型コロナに関して、国民は再三再四、政府からお願いされた。そのコロナが一息ついたと思った矢先、節電のお願いである。そのうち、もっと「きつい」お願いをされかねない。
電力に話を戻すと、不足する直接のきっかけは2011年の福島原子力発電所の大事故である。それ以降も政府は、原発再開を最優先政策に据える一方、再生可能エネルギー(太陽光、風力、地熱など)による発電を主力に据えなかった。
最優先の原発にしても、矢面に立ちたくない政府は電力会社に主役を譲り、自身は監督側に徹している。原発に問題が生じれば、「主役が悪い」と逃げられるように仕組んでいるようだ。思うに、原発に頼るにしても、電力会社という非政府の組織にはもはや荷が重すぎる。それでは遅々とした歩みしかない。原発を最優先にするのなら、既存の発電設備を政府が買い上げるべきではなかったのか。
一方、原発の後塵を拝した再生可能エネルギーには積極的な投資がなかった。太陽光だけは国民の負担を前提に、発電の増強が図られたが、それに対する送電設備の割当を「他の発電に割り当てた後の残り部分だけ」にしたため、太陽光で発電しても使えない状況が全国各地で発生している。お粗末君(おそ松君)である。政府が全体像を見ずに政策を打ち出した典型例として語り継がれるだろう。
本来、発電と送電は一体のものとして設計しなければならない。再生可能エネルギー発電を新規参入者に任せたこと、送電を既存の民間の電力会社に任せたことから、「福笑い」さながらの電力供給の絵柄になってしまった。
既存の民間の電力会社が従来から保有する原子力発電の送電を既得権益化するのは当然である。さらに言えば、送電網に対する設備投資を政府が音頭を取り、場合によっては国の資金を使ってやらなければならなかった。それを怠ったため、再生可能エネルギーによって発電された電力の送電はもちろんのこと、地域間の電力の融通にも支障が生じている。
今もなおエネルギーに関して、ガソリンなどの価格上昇を抑えるために税金を使うという弥縫策、ばらまき策が続いている。そんな資金があるのなら、今からでもいいから、「それを電力対策に使ったらどうや」と思ってしまう。
以上のような政策のミスについて「ウチは何にも知らへんし」というシカト顔をし、国民に節電のお願いをするなんて図々しすぎる。しかも、電力設備の増強には時間がかかる。お願いはこれから年中行事化する可能性が高い。
「しかも」である。政府が願っているように、日本経済が成長力を取り戻せばどうするのか。電力の消費量が増える可能性が高い。その時に政府は、「成長をしばらく止めてほしい」とお願いするのかもしれない。「ホンマに福笑い」というか、本音は貧乏笑いである。
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2022/05/28


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