川北英隆のブログ

東京のビル群が建て変わる

先日、久しぶりに有楽町界隈から内幸町へと、日比谷通りを歩いた。日生劇場の北側にあった元三井銀行本店が建て替わったのは知っていたが、帝国ホテルの南側、元大和生命ビル(鹿鳴館跡)から元第一勧銀本店ビルまで、すべて取り壊しの準備中だった。
調べると帝国ホテルも再開発され、東電の本社ビルも対象になるらしい。要するに、東西は山手線と日比谷通り、南北は帝国ホテルと元第一勧銀・東電で囲われた一帯、6.5haが一新されるらしい。
とすれば、その付近で残る古いビルはほぼ日生劇場だけに近い。就職して東京に出稼ぎに行った1977年4月、つまり45年少し前と風景が一変する。
僕が初めて東京の街を見たのは1969年である。早稲田を滑り止めで受験するためだった。2月初旬と記憶している。父親が付き添ってくれた。
新幹線で東京駅に降りると、父親の戦友(確か上田さん)が出迎えてくれた。少しだけ東京見物というので駅から歩き、皇居と、その堀を挟んで東側に建つビル群を見た。ビルが同じ高さに整然と並んでいたのを覚えている。2月のこともあり、またスモッグだったのだろう、空もビルの壁も黒ずんでいたのがかえって重厚だった。
上田さんが大正海上火災に勤務していて、その本社ビルもお堀の西側に建っていたと記憶している(調べれば分かるのだが、ネットではにわかには出て来ない)。それもあって案内してくれたのだと思う。
当時のビル群で日比谷通り沿いに今も残っているのは皆無ではなかろうか。やはり日生劇場のビルだけかなと思う。もちろん明治生命ビルも第一生命ビルも昔の玄関部分は残っているが、後ろに近代的なコンクリートのビルが屹立している。
ついでに書くと、お堀沿いを見た後、東西線で高円寺に向かった。上田さんの自宅がそこにあった。その自宅で上田さんと父親は将棋をすることになった。僕が何をしていたのか忘れた。勉強ではなかったのは確かである。上田さんには僕よりも年上の子供(つまり大学生)がいたので、少し話を聞いたようにも思う。
夕食をどうしたのかは忘れた。忘れたことを思うと上田さんの家で食べたのかもしれない。泊まりは、今の昭和通りに面したホテルだったようだ。車の音が夜中にもあった。
翌朝、近くの百貨店(銀座界隈だったか)まで歩いてサンドイッチを買いに行ったのを覚えている。昼食にしたと思う。でも、そんな早い時間に開いていたのだろうか。
早稲田に行くには東西線を使う。上田さんの家に行ったのが練習になった。1977年、東京に住み、そこから会社までの交通機関は東西線につながっていた。「縁があるな」と、8年前の案内に内心(つまり直接上田さんに伝えられないながらも)感謝した。

2022/12/16


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