川北英隆のブログ

最近思う勤怠の不愉快

必要があり、大学の雑用をしていて気づいたことがある。それは、教員や職員の勤務に関して「勤怠」という用語が頻繁に出てくること。以前から「勤怠」は知っていたが、こんなに頻繁に使われているとは、激怒に近い。
僕が社会人になった頃、会社は確か「欠勤簿」で出勤を管理していた。当時は「緩いのやな」と思っていたが、今から考えると、会社としては「職員が出勤するのは当たり前、せやさかいに欠勤したときだけメモしといたらええ」との発想があったのだろう。
そんな「欠勤簿」という用語に大きな反発はない。欠勤した、勤務しなかったという厳然たる事実をメモするだけだから。
それに対して「勤怠」ってだれが考えたのだろうか。何でわざわざ「怠」を使わないといけないのか。
念のため電子辞書版の広辞苑を調べると、「勤怠」とは「勤めること怠けること」とある。つまり、勤務しない日や時間は「怠けてる」と雇用主が評価していることになる。雇用主の決めつけである。
今は奴隷制度の時代ではない。それなのに勤怠なんて用語を堂々とつかうなんて、そんな会社や組織は、働き方改革とは無縁だし、むしろ従業員を機械としてしか扱っていない。使い捨ての発想である。
人材を「人財」と書き換えることが流行っている。もしも「人財」と表記している会社が、同時に「勤怠」を使っているとすれば、その会社の化けの皮が剥がれたことになる。「表面だけを綺麗にする術」の使い手である。
勤怠とは、僕が社会人になった頃の有給休暇制度が、いつの間にか複雑になったから使われ始めたのか。昭和後期の有給休暇制度は、「1日休むか、1日仕事をするか」、つまりデジタル的に「1か0」だった。当事、土曜日は半ドン(半分盛りの丼ではない)だったが、その土曜日を有給休暇にしても1日分が減った。
今は、時間単位で有給休暇を取れる組織が多いだろうし、育児をはじめとしていろんな休暇制度がある。その管理を「欠勤簿」とか「出勤簿」と呼ぶのがふさわしくないと、細かいことに(そんなことだけに)気がつくどこかの偉いさんが、「そうだ、勤怠簿と呼ぼう」と考えたのかもしれない。
昭和の時代なら勤怠簿と呼んだとしても誰も声を大にして反対はしなかっただろう。しかし、その用語が今も堂々と生きているとは。まともな感性に乏しい社会である。
勤怠簿、勤怠管理、勤怠システムなんて用語を、何の疑問も抱かず使っている組織には、明るい未来が来ないに違いない。

2024/04/16


トップへ戻る